Quantcast
Channel: 風色明媚
Viewing all 216 articles
Browse latest View live

2014年 2月17日 月曜日

$
0
0
■イタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂 50号 (第2回)

描き始めてから1ヶ月、ようやく下描きが(一応ですが)終了しました。
使っているのは鉛筆と薄墨だけです。
最上部を少しカットする前提で、50号Pサイズに描いています。





前回、全体が右下がりの印象を受けましたので修正しました。
子細に眺めると、まだ形や傾斜角度のおかしなところがありますが
それらは今後彩色をしながら修正していきます。

屋根の傾斜が少し強過ぎるような気がします。
教会の屋根は一般的に傾斜が緩やかですから、もう少し寝かせた方がいいかもしれません。
右側の屋根は、少し湾曲して見えますね。


最上部の三角形の壁は、このように単なる石壁でしかありませんので予定通り少しカットします。
一時は小さな窓を追加しようかとも考えましたが、このまま原則として実物に沿って描くことにしました。

前回、リンクさせていただいたshinkaiさんのブログをご覧になった方はお分かりと思いますが
この正面壁は、主に白い大理石と暗い凝灰岩で構成されています。
最上部の三角形の壁は凝灰岩だけで、装飾や窓などは何もありません。
この壁の面積をどの程度にするか、それが構図上の問題です。
そこでPCを使い、凝灰岩の部分を少しだけ暗く落として大理石部分とのコントラストを上げ
なおかつ最上部を少しカットした画像を作ってみました。





薔薇窓のある二層目の壁はほとんどが大理石です。
そして、その下にある「小アーケード」と呼ばれる回廊風の部分の柱も大理石です。
最上部の三角形の壁は、空と共にもっと暗く落とす予定ですので、もう少しカットした方がよさそうです。


さて、ようやく彩色に移れます。
今回初めて使っている「土佐麻紙」の裏は、思ったほど描きづらくはありません。
しかし、まだ鉛筆と薄墨だけですから楽観はできませんが。
かなりの凸凹ですが「越前麻紙」の裏よりも若干繊維が固く締まっているようで
鉛筆で描いて練りゴムをガンガン使っても意外と毛羽立ちません。
ただ薄墨は予想通り乗りが悪く、彩色は少し手間がかかりそうです。
私がイメージしている雰囲気作りに役立つとは思うのですが、どうなりますか。


-------------- Ichiro Futatsugi.■


2014年 2月28日 金曜日

$
0
0
■イタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂 50号 (第3回)

鉛筆と薄墨による下描きが終了し、彩色に入っています。
いつものように、鉛筆を定着させるためにニカワ水を全面に塗ることから始めましたが
今回の紙は水彩紙以上に凸凹ですので、凹んだところにまでニカワが行き届くように、何度も筆返しをして摺り込むように塗っておきます。

摺り込むようにニカワを塗りましたので、定着力の弱い鉛筆で描いた部分は結構動いてボケてしまいます。
そこで、まずはボケた形を描き起こすことからな彩色に入りました。
鉛筆で描いたことと同じことを絵の具で上描きします。




これは昨日の状態で、一通り描き起こしが終わったところです。
形の描き起こしが主眼で、全体の明暗のバランスはあまり気を使っていません。

使用している絵の具は
・アイボリーブラック
・白亜(下地用)
・岩黒の13番
・方解末の13番
これらを混ぜた色のみで、ご覧の通り白と黒だけです。

最上部の三角の壁はもっと暗く落として目立たなくしますが、やはり少し広過ぎるようです。





前回と同じように上部を少しカットしてみました。
薔薇窓を画面中央より少し上にしたいので、少なくともこのくらいはカットしてもいいようです。

明暗が入って形が明確になってきますと形の狂いが目立ってきます。
薔薇窓の修正には手間がかかりましたが、まだ少し気になります。
その他にも何カ所か修正すべき点がありますが、それは今後ボチボチと…。



今回初めて使っている「土佐麻紙の裏」は、何度も書きましたように凸凹のザラザラですので、カッチリとした筆のタッチが出しにくいのです。
描けないことはないのですが、筆の水気が少しでも減ると途端にボソボソのタッチになります。
私は元々カッチリとしたタッチが苦手で、ボソボソのタッチを重ねて調子を作っていく方が性に合っているのですが
この紙は比較的簡単に私の好みの調子が出せるのです。

この紙は今の私にピッタリかもしれない! 

1日描いたところで、そう思えたのです。
私は紙にはあまり拘らない方で、ほとんどの作品に越前産の雲肌麻紙を使ってきました。
昨年、日本画教室の生徒の1人が土佐麻紙を使ってみたいと言って端切れを見せてくれたのですが
その裏を見るなり、これは使えるかもしれないとピンと来たのがきっかけでした。

「土佐麻紙の裏」を、今後は全面的に使用することを考えています。
使う紙を変えるのは20年ぶりになります。
モチーフによっては合わない場合もあるとは思いますが
すでに今後の作品の構想を土佐麻紙を前提にしたものに変更する作業を始めているのです。


紙を変えたのは私にとっては大きな転換なのですが
変えたのは紙だけではありません。
急遽予定を変更して、彩色手順も変えました。
普段は最初に固有色に近い色を地色として全面に置いてから始めることが多いのです。
紙の地が透けて見えなくなるまで絵の具を重ねるというのが普通でした。

今回、地色(下塗り)は一切なし。
壁の明るい部分は紙の色を可能な限り生かす。
そのために最初から仕上げるつもりで描く。
それから、使う色は白と黒によるグレートーンのみで色は使わないことにしました。

これらは今まであまり経験していないことですが、無理して変えたわけではなく
紙が自然に変えさせてくれたという気がしていますので、どういう結果になるのか楽しみです。


気に入った画材に巡り会うのは至福の瞬間です。
もちろん、だからと言って良い絵が描ける保証にはならないのですが、気分良く描けるのは確かです。

気分良く描けるということは、良い絵を描くための必要条件だと思います。
1点仕上げるのは簡単ではありませんので四苦八苦するのは当然のことですが
一方で気分良く描ける・楽しんで描くという要素がないと、本当に良い絵にはならない気がするのです。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 3月8日 土曜日

$
0
0
ここのところ、仕事は一応順調に行っています。
10日くらいでブログを更新できているのが何よりの証拠です。
しかし、ぬか喜びは禁物!
どこに落とし穴が隠れているかわかりませんからねぇ。

始めて使う「土佐麻紙の裏」は、私にピッタリ合っているとは思うのですが
やはり何点か描いてみないと断定はできません。
50号は比較的大きい画面ですから、凸凹の紙の表情が分かりやすい小品でも試してみる必要があります。

今回は試用というつもりで50号用に切り分けられた紙を購入して使いましたので端切れしか残っていません。
そこで先週の日曜日に、また新たに土佐麻紙を買ってきました。
それで3〜4号くらいの小品を近日中に始めたいと思っています。

描き続けているサン・ピエトロ聖堂には集中できているのですが
やはり私は何点かを同時進行し、その日・その時の気分によって選んで描く方が性に合っているようです。



■イタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂 50号 (第4回)




これは前回2月28日の状態です。





こちらはその一日後、3月1日の状態です。
前回と色調が異なるのは、PCによる色調補正が同じにできなかったからです。

ほとんど描いていなかった、彫刻と薔薇窓の影を入れ始めました。
そして建物各部の影や空の暗さも強調し始めており、全体の印象が大きく変化してきています。
こうして比較してみると、前回が平板であったことがよく分かりますね。


ロマネスク様式の味わいのある彫刻とレリーフに彩られ、白い大理石と暗い凝灰岩で構成された正面壁全体は
この聖堂独特の美しさを醸し出しているのですが、私が描こうと決めたのは、それだけが理由ではないのです。
薔薇窓の周りに配された彫刻が、斜めから差し込んだ直射日光を受けて形作る影が印象的だったのです。

直射日光が作る影は強過ぎて絵に描くことはあまりないのですが
状況によっては、とても鮮烈な印象を与えてくれます。
特に斜光線は、平凡で目立たない物にも劇的な変化をもたらしてくれることがあります。

斜光線で思い出深いのが、一昨年に描いた「久遠の泉」です。
ウンブリア州の古都アッシジにある、目立たない小さな水飲み場を描いたものです。



 「久遠の泉」 15号

この作品は光に魅せられて描いたものでしたが、今回は影です。
もっとも影を描くことは光を描くことに他ならないので、結局は同じことなのですが…。


さて、3月1日から一週間ほど経っていますので、現在の画面はもっと変化しています。
ようやくサン・ピエトロ聖堂の持つ雰囲気が出て来つつありますが
このあたりまでは言わば下仕事であり、説明的な描写が主体でした。

ここから先が本当の絵作り。
私の抱いているイメージに近づけていく仕事が、これから本格化します。


-------------- Ichiro Futatsugi.■


3.11を忘れないために…ささやかなWeb展を

$
0
0
あの日から3年が経ちました。

その瞬間…

  2011年(平成23年)3月11日 午後2時46分

私は思わず覚悟を決めたくらいでした。
それほどの、経験したことのない強く長い揺れだったからです。

あの日も、我が家の周辺は今日と同じように普通の日常の時間が流れていました。
テレビで次々と映し出される凄惨な状況と、窓から見える穏やかな日常風景との間にある
埋めようのないギャップをどう理解していいのか、頭の中は空回りするばかりでした。


  死者 15884人

  負傷者 6148人

  行方不明者 2633人
 
  (3月10日現在 警察庁緊急災害警備本部広報資料より)


そして、同時に起こった福島第一原発の事故によるものも含めて
3年も経った今、なお避難生活を続けている人が約26万7千人!


このような災害による被害を少しでも減らすための第一歩は、忘れないことです。
大災害の前には無力な私たちでも、このくらいのことはできるはずです。
しかし、言うは易く行うは難し。
人間の記憶は風化して行ってしまいます、確実に!




さて今回は、いつもの重た〜い作品ではなく、パソコンで作った軽い画像を何点かご紹介します。
私は作品の構想を練る時パソコンを使うことが多いのですが
その際に息抜きも兼ねて、半分遊びで作ったものです。
ハガキなどに使うことが多いのですが、こういうものが新たな作品のヒントになることもあるのです。





 「篝火」(6号 2007年)の下描きにPCで淡彩風に彩色






 「月夜見」(50号 2005年)の部分を年賀状用にトリミングして加工






 「二人の空」(4号 2012年)の下描きにPCで彩色と加工






 「ティーカップ」(4号 パステル 2008年)を額装風に加工






 「壁の聖母」(12号 2005年)の聖母子像部分の下図と本画をPCで合成






 「黄冠」(8号 2005年)の下描きに制作過程を部分的に重ねたもの





 
 これはイタリア・アッシジの写真を合成して作った2003年の年賀状用


-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 3月26日 水曜日

$
0
0
■イタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂 50号 (第5回)




前回3月8日に掲載しました、3月1日の状態です。


現在、制作は中断しています。
小品を何点か描く必要があり、この作品は個展などに出品する予定が今はありませんので
小品の目途が立つまで、しばらくの間寝かせておきます。

それでは3月1日以降の、現在までの過程を2点ご紹介して一区切りとします。




これは3月12日。





これは3月20日の状態で、ここで中断しています。

とても気に入っているモチーフで、ここまで一気呵成と言えるくらい描きましたので
一応、大筋で完成イメージに近いところまでは来ていると思います。
あとは細部の更なる描き込みや修正を残すのみとなっていますので
しばらく中断しても、スムーズに再開できるだろうと見込んでいます。
一気呵成に描いたために、多少冷静さを欠いたところもあったでしょうし
ここで少し間を置くことで、今まで見逃していたものに気づくこともあるかと思います。
それでも、気分転換を兼ねて手を入れることもあるかもしれませんので
大きな変化があった場合や、本格的に再開した折りには続きを掲載します。




●イタリア・シエナのドゥオーモの夜景 20号 (第6回)

昨年の10月31日に掲載して以来の登場です。
この作品も現在は中断しています。




2013年10月31日。





2013年11月下旬。

掲載は10月31日が最後でしたが、11月いっぱいまでは制作が続いていました。
12月以降は中断していますが、時折、気づいたことがあれば手を入れています。
こちらも、また大きな変化があった場合には掲載します。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 4月25日 金曜日

$
0
0
1回の更新もないままに4月も終わりに近づきました、が…

記事のネタが無い!!

前回書きましたように、トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂とシエナ大聖堂は中断しています。
現在は6月の個展用の小品3点と、過去の作品1点の加筆・修正を行っていますが
いずれも制作過程は記録していませんので、記事にするネタがありません!

せめて月一を維持したぁ〜い!…という焦りから
仕事場の様子を紹介してお茶を濁すことにします。




メインの仕事場。

メイン? そんなにいくつも仕事場があるのか?
いえ、仕事場は一応6畳一間だけなのですが
隣のリビングも、その隣の6畳間も一時的には仕事に使えますので
ちょっと見栄を張って、ここがメインということで。 ぎゃはは!






制作中の小品3点。

右は長野県蓼科の御射鹿池(4号)。
左上は長野県安曇野の大王わさび農場の脇にある川と水車小屋(3号)。
左下は長野県安曇野の象徴とも言える常念岳(3号)。

いずれも、岩絵の具・水彩・色鉛筆・パステルの混合技法。
紙は土佐麻紙の裏使い。






これは新しい試み。
デジタルプリントに手彩色を施した試作品。

一般的なA4サイズのインクジェットプリンタで和紙(越前麻紙・土佐麻紙)にプリントし
その上に岩絵の具・水彩・色鉛筆・パステル・アクリルなどで彩色を施してみたものです。

ジークレーあるいはピエゾグラフとも呼ばれるデジタルプリントによる版画用・複製用の技法は
高解像度のデジタル画像を高精細のインクジェットプリンタで出力したもので、原画と識別できないほどのクオリティーがあります。
しかし、小品で手彩色を前提にしたものなら、一般用のプリンタでも充分使えそうだと試しているのです。
ただし、A4サイズで規格の号数に合わせようとするとサムホール以下となります。
この4点は、いずれも0号(長辺18cm)です。

版画とタブローの中間のような位置づけを狙っているのですが
作品と言えるものができるかどうか、今のところは実験段階ですので未知数です。






そして、最後は仕事場の窓際の様子です。

私は卓上ランプが好きでいくつか持っていますが、このランプのガラスシェードはMade in Murano。
Muranoというのはイタリア・ヴェネツィアのムラーノ島のことで、つまりヴェネツィアングラスなのです。
いつも夕方近くになると点灯しますが、曇りの日は朝から点けています。
かなり黄色い光ですので、仕事用の照明には向きませんが
こういうものが傍らにあると、穏やかな気持ちで仕事ができます。

下の青い十字架はアンティーク風に加工された置物。
青い部分はガラス、他は金属製で、高さ15cmくらいの小さなものですがズッシリとした重さがあります。
私はクリスチャンではありませんが、ヨーロッパの教会をよく描く手前
敬意を表して、1つくらい十字架を持っていた方がいいかなぁ、と。
制作中のトゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂も、シエナ大聖堂も、共にカトリックの教会ですので
間接的にカトリックのお世話になっていると言えないこともありませんよね。
もっとも十字のデザインは古代からあるものでキリスト教の専売特許ではありませんが。
十字の形には伝統的なものも含めて様々な形態・ヴァリエーションがありますが
単純明快かつ秀逸なデザインですよねぇ。


ところで十字架と言えば、イエス・キリストが磔になった十字架は、十字形ではなかったという説をご存知ですか?
話が横道に逸れますが、もう他に書くことがないので少し書きますね。
十字架刑というのはユダヤの処刑法ではなく、古代ローマの国家反逆罪クラスの罪人に適用された処刑法で
2本の木を寝かせて十字形に組み合わせ、そこに罪人を打ち付けてから立てるという方法と
先に縦木を立てておき、罪人を横木に打ち付けて、それを縦木の上に引っ張り上げて乗せるという2通りの方法があったようです。
イエスの場合は後者だったという説があるのです。
ということは、十字形ではなくてT字形だったことになります。
あらかじめ立てられていた縦木の頂上には、つまりイエスの頭上には「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」と書かれた罪状板が取り付けられ
遠くから眺めると、全体として十字形に見えたということらしいのです。

そうなると、磔刑判決を受けた後、イエスはユダヤ属州総督ピラトゥスの屋敷からゴルゴダの丘までの道ヴィア・ドロローサを
横木だけを背負って歩いたということになります。
でも、その場面を描いた絵には、たいてい横木だけではなく十字架が描かれています。
それは新約聖書の四福音書に十字架を背負って歩いたと書かれているからです。
まあ、事の真偽はともかくとして
横木だけを背負うより、十字架全体を背負った方がイエスであることを表現しやすいですし絵になりますからね。



と言うようなわけで、今月は何とかお茶を濁すことができ
無事、月一ブログの面目躍如を果たしました!

それでは皆様、ネタが出来ましたらまた来月お目にかかります!
素敵なゴールデンウィークを!
Buon settimana d'oro ! ! (←これは私の作った偽イタリア語です)


-------------- Ichiro Futatsugi.■


「洲羽の会」絵画展のご案内

$
0
0
洲羽(すわ)の会というグループ展のご案内です。

私は8年ほど前から、月に1回、長野県諏訪市で日本画教室を開講しています。
日本画教室と銘打ってはいますが、ジャンルを問わず、あらゆる絵画の指導を行っています。
生徒さんは当然のことながら諏訪近辺在住の方が多いのですが
北は大町市、南は伊那や山梨県内から参加されている方もいらっしゃいます。





教室は「ギャラリー橋田」という画廊の展示スペースを使用させていただいています。
制作用の机は、主に工芸作品を展示するための大きな箱テーブルの上に板と古新聞を敷いたもので
壁面には私の作品をはじめとして、いろいろな作品が架けられたままにしています。

この教室は月に1回、基本的に土・日の2日間開講します。
1回ごとの会費制ですので都合の良い時だけ参加することができます。
1度でも参加されると受講生として登録され、その数は20名以上になりますが
やはり農作業や地元の行事などがあって、1回の平均参加者数は7〜8名といったところでしょうか。







その生徒の皆さんによる初のグループ展を開催することとなりました。
会場は、教室として使用させていただいているギャラリー橋田です。

開催にあたり、講師である私が命名と題字を担当させていただきました。

「洲羽」とは、古代における諏訪の表記名です。

8世紀に編纂された日本最古の歴史書である古事記に、有名な「国譲り」の神話があります。
大国主命(おおくにぬしのみこと)らが統治していた葦原中国(あしはらのなかつくに:出雲)に対し
天照大神(あまてらすおおみかみ)ら高天原(たかまがはら)の神々が国を譲るように要求します。
大国主命と長男である事代主命(ことしろぬしのみこと)は承諾するのですが
次男の建御名方命(たけみなかたのみこと)が最後まで抵抗したのです。
そして高天原の神と”力比べ”をして敗れ、科野國之洲羽海(しなののくにのすわのうみ)に逃れたと書かれています。
洲羽海とは諏訪湖を囲む地域、つまり諏訪のことです。
その後、建御名方命は南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)という神社に祭神として祀られることになりました。
これが現在の諏訪大社です。

古事記に名を記されているほど諏訪の地は古くからの歴史を誇っています。
日本三大奇祭の一つと云われる「御柱祭」を執り行う諏訪大社をはじめ
諏訪の歴史は多くの謎を秘めてもいます。
そのような諏訪の文化に僅かでも貢献できればと思っています。
お忙しいこととは存じますが、是非ご来場いただけますようご案内申し上げます。



洲羽の会 絵画展

6月7日(土)〜13日(金)

参加人数 15名前後を予定
出品点数 30〜40点ほどを予定 (私の作品も何点か展示する予定です)

ギャラリー橋田
〒392-0017 長野県諏訪市城南1−2550
TEL 0266-52-3420 FAX 0266-52-3653
10:00〜18:00
入場無料


*現時点ではDMが出来上がっていませんので、出来次第、画像を掲載します。


なお、ギャラリー橋田のホームページには生徒の皆さんの作品ギャラリーがあります。
グループ展に出品する作品とは限りませんが、どうぞご覧下さい。
http://www.hashida.jp


-------------- Ichiro Futatsugi.■

個展のご案内・11 長野・ながの東急百貨店

$
0
0
この度、長野県長野市の「ながの東急百貨店」にて個展を開催させていただくことになりました。

私は長野県松本市(旧南安曇郡梓川村)出身なのですが
長野市のある北部はあまり縁がありませんでした。
北部は…と言うよりも、松本のある中部以外の地域も同じように縁が薄い状態でした。
なにしろ長野県は広いのです。

県庁所在地である長野市や飯山・白馬などの北部が北信(ほくしん)
私の故郷である松本市をはじめ、大町・木曽などを含む中部が中信(ちゅうしん)
上田・佐久・軽井沢などがある東部が東信(とうしん)
諏訪・伊那・飯田などの南部を南信(なんしん)と呼びます。
たいていの県は、いくつかの地域に分かれているものですが
長野県は広い上に山地が入り組んでいるために、かつては他の地域への移動は簡単とは言えず
子供の頃の私にとっては、他県へ行くのと同じような感覚でした。
私は蒸気機関車に乗った経験のある世代なのです。

本当に久しぶりに長野市に出かけることになります。
馴染みが薄いだけに、市内に何があるのか、見知っているのは善光寺など数カ所に過ぎません。
だからこそ楽しみでもあるのです。

お忙しいこととは存じますが、何卒ご高覧いただきたくご案内申し上げます。


(DM画像は出来上がり次第掲載いたします)



二木一郎 日本画展

6月27日(金)〜7月2日(水)

ながの東急百貨店 別館シェルシェ5階ホール
10:00〜19:00(最終日17:00まで)
入場無料

〒390-8507 長野県長野市南千歳1-1-1(JR長野駅前 駅西口より徒歩数分)
TEL 026-226-8181

 →ながの東急百貨店ホームページ 




今回は 約20点 の展示を予定しています。

その内、新作は以下の3点です。
いずれも混合技法による作品で、岩絵の具・水彩・色鉛筆・パステルを併用したものです。





 常念 3号F  長野県安曇野・常念岳(じょうねんだけ)







 御射鹿池 4号F  長野県蓼科・御射鹿池(みしゃがいけ)







 河畔 3号F  長野県安曇野・万水川(よろずいがわ)


-------------- Ichiro Futatsugi.■


お知らせ

$
0
0

先日掲載いたしました長野県長野市・ながの東急百貨店での個展の記事につきまして
事前に知らされていた内容と大きく相違する点がありましたので、記事を取り下げ、保留とさせていただきます。

詳細が判明いたしましたら、修正の上、再度掲載いたします。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

特選秀作絵画展のご案内 長野・ながの東急百貨店

$
0
0
先日、長野県長野市・ながの東急百貨店で個展を開催すると記事を出しましたが
詳細を確認したところ「特選秀作絵画展」という展覧会の中のメイン出品者という形なのだそうです。
私の作品が最も数多く展示され、同時に他の作家の作品も展示されるということでした。
謝った情報を掲載いたしましたことをお詫びいたします。
記事の内容を修正の上、再度ご案内申し上げます。



私は長野県松本市(旧南安曇郡梓川村)出身なのですが
長野市のある北部はあまり縁がありませんでした。
北部は…と言うよりも、松本のある中部以外の地域も同じように縁が薄い状態でした。
なにしろ長野県は広いのです。

県庁所在地である長野市や飯山・白馬などの北部が北信(ほくしん)
私の故郷である松本市をはじめ、大町・木曽などを含む中部が中信(ちゅうしん)
上田・佐久・軽井沢などがある東部が東信(とうしん)
諏訪・伊那・飯田などの南部を南信(なんしん)と呼びます。
たいていの県は、いくつかの地域に分かれているものですが
長野県は広い上に山地が入り組んでいるために、かつては他の地域への移動は簡単とは言えず
子供の頃の私にとっては、他県へ行くのと同じような感覚でした。
私は蒸気機関車が現役バリバリで活躍していた頃に生まれた世代なのです。

本当に久しぶりに長野市に出かけることになります。
馴染みが薄いだけに、市内に何があるのか、見知っているのは善光寺など数カ所に過ぎません。
だからこそ楽しみでもあるのです。

お忙しいこととは存じますが、何卒ご高覧いただきたくご案内申し上げます。


(DM画像は届き次第掲載いたします)



特選秀作絵画展

6月27日(金)〜7月2日(水)

ながの東急百貨店 別館シェルシェ5階ホール
10:00〜19:00(最終日17:00まで)
入場無料

〒390-8507 長野県長野市南千歳1-1-1(JR長野駅前 駅西口より徒歩数分)
TEL 026-226-8181

 →ながの東急百貨店ホームページ 



会場はかなり面積が広いそうで
私の作品は30〜40点 ほど展示される予定と聞いております。

その内、新作は以下の3点です。
いずれも混合技法による作品で、岩絵の具・水彩・色鉛筆・パステルを併用したものです。





 常念 3号F  長野県安曇野・常念岳(じょうねんだけ)







 御射鹿池 4号F  長野県蓼科・御射鹿池(みしゃがいけ)







 河畔 3号F  長野県安曇野・万水川(よろずいがわ)


-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 7月3日 木曜日

$
0
0
まずは、昨日終了しました長野市ながの東急での個展にご来場いただきました皆様
並びに素敵な花をお贈りくださいました方々へ、心より御礼を申し上げます。
今後の展覧会にも是非ご来場いただけますよう謹んでお願い申し上げます。




昨年の12月以降中断していましたイタリア・シエナのドゥオーモの夜景(20号)
そして3月末以来中断していましたイタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂(50号)
両作品は、共に6月より再開しています。

シエナのドゥオーモは半年間中断した間に問題点がいろいろ見えてきて
再開後は概ね順調に筆が進みました。

トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂は、中断した時点で大筋はできているように思えましたので
再開後は、粛々と細部の調整に終始しています。



■イタリア・シエナのドゥオーモの夜景 20号 (最終回)





2013年11月下旬の状態。

スッキリしない印象があり、絵の強さ・決め手に欠けるという想いがありました。
一本筋が通ったと言いますか、すべての物が渾然一体となった統一感が弱いように思うのです。
薔薇窓のほぼ全面に映り込んだ月と、聖堂の壁一面に散り嵌められた彫刻などの装飾が煩雑に見え
壁面の表情・厚みなどが弱く感じられます。

まず最初に気づいたことは、薔薇窓に映り込んだ雲の量が多過ぎること。
そこで雲の量を減らすことから始めました。
そして薔薇窓以外の壁面は、細部の描写よりも月光が染み込んだような空気感をより優先すべく
聖母像の周囲の聖人たちの彫刻は、より暗く落とし、コントラストを下げるなどして作業を進め
制作開始から約1年を経て、ようやく仕上がったところです。





 「月のファサード」 72.7 x 57 cm








■イタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂 50号 (第6回)





中断する直前の3月20日頃の状態です。

絵の骨格というべきものは大筋でできているように思っていましたので
再開後の仕事は細部の詰め、そして最も留意しているのは質感表現です。
質感というのは材質である石の質感だけではなく、絵肌の質感、築後700年あまりを経た時間の厚みというものも含まれます。

中断する少し前から、描きながら常に傍らに置いて参考にしていたのは、この聖堂の洗浄前の画像でした。
比較的近年だろうと思いますが、この聖堂は洗浄を施されて綺麗に甦っています。
対して、洗浄前は白い大理石でさえ黒ずみ、所々には鉄錆色も見え、建物の部材には欠損が目立つような状態でした。
時間の厚みを表現するには、単に古色を加えればいいというものではありませんが
一日にしては成らない古色が大きなヒントになることは確かです。






現在の状態です。

一目で分かるほどの大きな変化はありません。
前回までは黒に近い濃いグレーまでしか使っていませんでしたが
再開後は黒を使って画面を締めながら、細部の調整を主体に続けています。
しかし、細部の調整だけで済むとは限りませんので
場合によっては大きな調子の流れを見直す必要が出てくるかもしれません。
いよいよ大詰めです。



今年も早半年が過ぎ、相変わらずのスローペースで仕事が続いています。
好き好んでスローペースにしているわけではありませんが、決断力の乏しい性格では致し方ないところです。
が、間もなくトゥスカーニアも仕上がると思いますので、そろそろ次作の準備もしないといけません。

次作の一つは「滝」を50号で描くことが決まっています。

滝? 何とも古風な題材だねぇ。鯉の滝登りでも描くの? ぎゃはは! などと笑ってくださいますな。
古いヤツだとお思いでしょうが、題材に古いも新しいもないので〜す。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 7月29日 火曜日

$
0
0

暑中お見舞い申し上げます!


暑い!! とにかく暑い!!

暑い!! 暑い!! 暑い!! 暑い!! 暑い!! あ、つ、いぃぃぃぃぃぃ〜!!!

どないなっとるんじゃぁ、地球はぁ〜!!


うぎゃぁぁぁ〜〜おぉぉ〜〜え〜〜〜、あ、あ、ぐわぁ〜〜〜〜〜〜 壊れた…





■イタリア・トゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂 50号 (最終回)





前回の状態です。



そして、ようやく一応の仕上がりとなりました。
完成画面です。




 「題名未定」 50号 116.7 x 75 cm


前回と今回では際立った違いは感じられないだろうと予想されたことから
今回は完成画面だけを掲載するつもりでした。
しかし、比べてみると、ずいぶん印象が違うのに自分でも驚いています。

色調の差は無視してください。
いつものことながら、補正の際の光の状態に左右されてしまうのです。
前回は若干赤味が強かったのですが、今回は逆に僅かに青味が強くなったようです。

一見して画面のプロポーションが違って見えますね。
今回の方が細長く、横長に見えます。
しかし、その差は縦が1ピクセル短いだけです。

空はかなり暗くしており、建物のハイライトも若干暗くしています。
その他は、ひたすら細部の微調整に終始していました。
こうして前回と今回を比較してみると、前回の画面は明らかに軽く浅く見えます。
大勢に影響がなさそうな細部の微調整でも、それらが積み重なって行くと大きな影響となって現れるのですねぇ。
こんなに差ができていることは、撮影して比較してみて、初めて気がついたのです。
前回より横長に感じられるのも、密度が上がり、建物と空間の存在感が増し、画面が締まったからだと思います。

薔薇窓の歪みは完全には修正できませんでしたし、他にも部分的に多少気になるところはありますが
それらは愛嬌の範囲内にあり、大筋で抑えるべきところは抑えられたと判断しましたので、これで終了とします。


この作品から「土佐麻紙の裏使い」に全面的に切り替えることを決めたわけですが
当然のことながら、この1点だけでは紙の性質を掴み切るまでには至りません。
しかし、やはり私にとって、この紙が現時点では最適であるという想いは変わっていません。

それでは、土佐麻紙の裏を使ったことでディティールがどうなっているのかをご覧いただきます。







土佐麻紙の裏が凸凹でザラザラだということはご紹介しました。
そのため、絵の具を含んだ筆が少し乾いてくると、凸凹の凸にしか絵の具がつかなくなるのです。
その結果、斑点のような調子が全面にできてきます。
画面を寝かせて水分の多い絵の具を使えば、凹んだところにも絵の具は入って行くのですが
この作品は立てて描くことが多かったために尚更ザラザラな質感になっています。

もちろん、それが土佐麻紙の裏を選んだ私の狙いの一つでした。
以前は絵の具で凸凹を作っていたのです。
私はこういう肌合い・質感が好きで、自分のイメージを表現しやすいと考えています。
この作品は、一応私の狙った雰囲気に近いものにはなったと思っています。

しかし、今回は50号という比較的大きな画面でしたが
これが10号以下の小品でしたら凸凹の影響は当然大きくなります。
しかも、今回は乾いた古い石ばかりのモチーフでしたから絵肌の質感と石の質感が合っていましたが
みずみずしい花や安曇野の風景を描いたら果たしてどうなるのか…。

それは描いてみないと分かりません。
試してみないことには、何事も前には進みません。
やってみて、何か問題が起こったら対処法を考えればいいのです。
もちろん、私には多少の予測と、それに合うであろう技法は考えているのですが
絵は考えているだけでは出来ません!
手を動かすことが、絵描きにとっては何よりも優先なのです!
この紙では、いろいろ試したいことがありますが、それはまた次の作品で。




さて、今回から作品の撮影をデジタルカメラのRAW(ロウ)で行うことにしました。
今までは無圧縮のTIFFで撮影して、これを保存用・印刷原稿用とし
ブログなどのために適宜JPGに変換するという方法を用いていました。
イタリア在住の友人shinkaiさんから「RAWが良さそうでございますわよ」とのご報告をいただき、ぎゃはは!
それなら私も…と、試してみることにしたのです。

デジタル画像についての詳しい説明は省きますが
RAWは、TIFFやJPGなどの一般的な画像形式に変換する以前の生のデータです。
特にホワイトバランスを撮影後にも調整できるのが利点だと思います。
以前は撮影時のホワイトバランスはオートに設定し、撮影後に色調補正をしていたのですが
どうしても出にくい色があって苦慮することが多かったのです。
ホワイトバランスを調整できるだけでも、かなり楽になった気がします。
ただ、これもまだ始めたばかりですので、しばらく試してみないと確かなことは言えません。






■イタリア・アッシジのサント・ステーファノ聖堂 8号 (第?回)

天災と、サント・ステーファノは忘れた頃にやって来る! ぎゃはは!
約8ヶ月ぶりの登場となります。
描き始めてからは、すでに3年以上が経過しています。




昨年の11月19日掲載の状態。
この時も約1年ぶりの登場でした。
今見ると、何だ?こりゃ、としか言いようがありませんね。
混迷を極めているという状況がビシビシと伝わってくる画面ですねぇ。

久しぶりの登場ですので、先にモチーフについての説明を少々。
この聖堂は、イタリア・ウンブリア州の古都アッシジの一角にあり
有名なサン・フランチェスコ聖堂やサンタ・キアーラ聖堂などと比べると小屋のような規模ですが
アッシジ最古級といわれる由緒正しい愛すべき教会なのです。
ロマネスク様式の建築には、これと言った特徴はないのですが
鐘楼脇の中庭に1本のモミの木が生えているのが、特徴と言えば特徴でしょうか。



今日まで30年以上絵を描き続けてきましたが
作品を没にしたのは、若い頃に2点あっただけでした。
絶対に諦めないことをモットーとしてきましたが、ついにその信念も崩れ去る時が来たか…と
この作品を半ば諦めかけたのが今月の上旬でした。

没にするのは悔しいけれど、長い人生、そういうこともあるんだと思いかけて
ふと懐かしい画家の絵を思い出しました。
アーノルド・ベックリンの「死の島」です。
そう、以前にもご紹介しましたが、私が「暗い絵好き」になった元凶の2人の画家がいます。
1人はカスパー・ダービド・フリードリヒ、そしてベックリンです。
フリードリヒの作品には不気味なモミの木がよく登場します。
そしてベックリンの代表作「死の島」の連作には、これまた不気味な糸杉が登場します。
作品が没になるかもしれないという瀬戸際に、何とも縁起の悪い絵を思い出したものです。

2人を知ったのは高校生の時だったと記憶しています。
最初に興味を持ったのはフリードリヒの方なのですが
長野県松本市郊外の山裾にある、私が生まれ育った小さな集落の一角に
モミの木に取り囲まれた民家があって、物心つく前から毎日のように目にし
高校生の時には30号の油絵に描いたことがありました。
モミの木のある風景というのは、言わば私の原風景でもあるのです。

完全に行き詰まって壊れかけた脳味噌がベックリンを思い出して考えたことは
ああ、いよいよサント・ステーファノが没になりそうだから、あんな縁起でもない絵を思い出したのかなぁ。
「死の島」で、この作品の葬式をやれってことか?
う〜ん、「死の島」といえば印象的なのが糸杉。
この教会はイタリアのウンブリア州にあるのだし、ウンブリア・トスカーナと言えば糸杉が名物。
葬式をする前に、糸杉や他の木でも入れて遊んでみるかなぁ…。





本日の状態です。

元々、木はモミの木が一本あるだけでしたが
糸杉や広葉樹を、鐘楼を取り囲むように何本か追加することにしました。
糸杉は3〜5本入れる予定ですが、まだ形と位置を探っている状況です。
満天の星空にするという方針は一貫して変えていません。
左右の暗くした部分はカットする予定です。

やれやれ、何とか息を吹き返し、没にせずに済みそうなのですが
それにしても…なぜこんなに時間がかかっても出来ないのか、自分でも不思議です。
おそらく、私の最大の欠点である決断力のなさ・思い切りの悪さが
何らかの要因によって、この1点に集中して出てしまったということなのでしょう。
それ以外には考えられないのです。
他のモチーフより特別難しいとも思えませんし…。

ですから、この作品が仕上がれば
私も精神的に少しは成長できるのではないかと、密かに楽しみにしているので〜す、きゃはは!

-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 8月29日 金曜日

$
0
0
8月も残り僅かとなり、暦の上ではすでに秋に入っていますが

「秋は名のみの、風の熱さよ」

そういう地域もまだ多いのではないかと思われます。
時期外れの挨拶ではありますが、残暑お見舞い申し上げます。


さて、前回はイタリアの教会を描きましたので、次は日本のものをと考えていました。
1年半前から構想を練り続けている「滝」を50号で描こう…と予定していたのでしたが
滝より先に描きたいものが見つかりましたので、急遽予定を変更することにしました。



■ ロマネスク聖堂の後陣 40号 (第1回)

前回はイタリア・トゥスカーニアにあるロマネスク様式の教会サン・ピエトロ聖堂の正面壁を描きました。
正面壁の上半分だけをドーンと画面いっぱいに。
薔薇窓や彫刻など若干の凸凹はあるものの、基本的には平面です。
もちろん、正面しか見えていなくても聖堂の奥行きを感じさせることは必要で、それには充分留意していましたが
仕上がりが近づくにつれ、今度は見るからにボリューム感のある建物を描いてみたいと思うようになってきました。

で、選んだものがロマネスク聖堂の「後陣」です。
それを画面いっぱいにドーンと描いてみようと思います。

改めて説明するまでもありませんが、後陣とは聖堂の最奥にある祭壇を取り囲む空間のことです。
それが外部に張り出しているように見える部分のことで、アプシス、あるいはアプスと呼ばれます。
大抵が円柱を半分に切ったようなカマボコ型をしており、その上に緩い傾斜の半円錐形の屋根がつきます。
ロマネスクやビザンティンなどの聖堂では、左右に小型のものを追加し、3連、あるいは5連の後陣が多く見られます。
因に、前回描いたトゥスカーニアのサン・ピエトロ聖堂の後陣は1つだけです。



今回は特定の聖堂の後陣ではなく、実在するものをモデルにして3連の後陣を描きます。
主に参考にしたのはスペインの修道院とイタリアの教会で、どちらも3連の後陣を持っています。

スペイン・バルセロナの北西にある都市テラッサ Terrassa から更に北へ
マタデペラ Matadepera という街の近くの山中にポツリと建つサン・ロレンソ・デル・ムント修道院。

そして、イタリア・エミーリア=ロマーニャ州サン・レオ San Leo にあるサンタ・マリーア・アッスンタ教会。
サン・レオは、サン・マリーノ共和国から南西方向に、直線距離にして10キロほどのところにあります。

そのサン・レオのサンタ・マリーア・アッスンタの後陣を、先日、イタリア在住の友人shinkaiさんが描かれたばかりで
その制作過程がブログに掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/suisaishiho/c/a8a1cbb1c00a3d250a969d12f340365d

shinkaiさんは後陣の上半分を斜めから見上げた構図で、10号ほどの画面ですが
積み上げられた石一つ一つまで丁寧に執拗に描写し、迫力ある見事な作品に仕上げられています。


では、私の方はと言いますと…。




一応構図が決まった段階です。
画面の大きさは、横100cm、縦85cm。
ほとんど後陣だけを画面いっぱいに、ほぼ真っ正面から見上げています。
身廊や側廊の壁・空・地面が多少入っていますが、ほとんどが後陣のみです。
使っている画材は、鉛筆・薄墨・水彩です。

まだ石を描き始めたばかりですので、のっぺりしていて田舎でよく見かけるサイロのようです。
サイロってご存知ですか?
穀物や家畜の飼料などを貯蔵する円筒形の倉庫のことです。

右の後陣の傾斜角度が、左に比べてやや強いような印象を受けます。

石を描き込んでから聖堂全体の形・構図を大幅に修正するのは大変になりますので
今の段階で、だいたいの聖堂全体の形・構図を決めておく必要があります。
しかし、単純な形だけに誤摩化すことが難しくなりますので、意外と厄介なのです。

この構図は完全な左右対称ではなく、建物をやや右に寄せています。
こういう構図では建物を寄せずに画面中央に入れてしまう方がスッキリして良い場合が多いのですが
光の方向・明暗のバランスから、やや右に寄せてみました。
それを確認するために作ってみたのが次の画像です。





完成時の明暗の分布はこのような感じになります。
左側から光が当たっていますので、壁の明るい部分が左寄りになる上
画面右側は、背後の側廊の壁も左側より暗く落とす予定ですので
完全な左右対称の構図にすれば、右端の暗い部分が広過ぎるように感じると予想したのです。

次の画像は、右端を少し伸ばして左右対称の構図にしてみたものです。



微妙ですが、やはり右端の暗い部分が僅かに広過ぎるように感じます。
右側の後陣の陰や側廊の壁がもっと明るければ建物を真ん中に入れて問題はないと思いますが
やはり、こういう明暗の分布であれば右に寄せるのがベストだと思います。


この画像は明暗の分布を確認する目的で作ったもので、色は度外視しています。
前回は白黒のみで描きましたが、今回は色を使います。
石は赤茶や黄色を主体にしてやや派手目な色にし、空は若干青味が入った黒にする予定です。

とりあえず、右側後陣の傾きを修正すれば、大筋で構図はOKだと思いますので
その後はひたすら、黙々と石を描いていくことになります。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

個展のご案内・12 長野県松本市 ギャラリー井上

$
0
0
長野県松本市・井上百貨店内の「ギャラリー井上」にて個展を開催いたします。

1996年から隔年開催させていただいており、今回で節目の10回目を迎えます。
初個展である第1回展から18年、いやぁ〜すっかり歳だけは取りましたなぁ。

少年老いやすく学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ醒めず池塘春草の夢
階前の梧葉すでに秋声

お忙しい時期とは存じますが、何卒ご高覧賜りますようご案内申し上げます。











井上百貨店・本店6階 ギャラリー井上(西ホール)
〒390-8507 長野県松本市深志2-3-1 TEL 0263-33-1150
( JR松本駅より徒歩約5分 )

10:00〜19:00(最終日は16:00まで)
入場無料

井上百貨店ホームページ
http://www.inouedp.co.jp





今回は25点前後を予定しています。
その内、新作は8号〜3号の7点で、いずれもパステルを主体にした小品です。
新作をご紹介します。





 ◆夕映え 6号  長野県・諏訪湖
  岩絵の具・パステル・色鉛筆  土佐麻紙使用







 ◆ 翠流 4号  長野県・安曇野
  岩絵の具・パステル・色鉛筆  土佐麻紙使用







 ◆ 納屋 8号  長野県・安曇野
  パステル・水彩・色鉛筆  マーメイド紙使用







 ◆「あがた」の杜 8号  長野県・松本市
  パステル・水彩・色鉛筆  マーメイド紙使用







 ◆ 果樹園 6号  長野県・安曇野
  パステル・水彩・色鉛筆  マーメイド紙使用







 ◆ 野の仏 4号  長野県・上田市
  パステル・水彩・色鉛筆  マーメイド紙使用







 ◆ 桔梗 3号
  パステル・水彩・色鉛筆  マーメイド紙使用


-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 10月24日 金曜日

$
0
0
まずは御礼から。
長野県松本市ギャラリー井上での個展は21日に終了いたしました。
ご来場いただきました皆様、素敵な花をお贈りくださいました方々には心より御礼申し上げます。
今後の展覧会にも是非ご来場賜りますようにお願い申し上げます。




さて、9月は1度も更新しませんでしたが、一応準備はしていたのです。
8月より始めた「ロマネスクの後陣」は、9月中には下描きが終わりませんでした。
そこで、制作過程の代わりに、例によって仕事場の様子でお茶を濁すつもりでした。




これは9月27日の様子。
個展用小品の締め切りが1週間後に迫っている状態です。
出品した7点は完成間近ですが、「ロマネスクの後陣」は、ご覧の通りの状態です。


個展用の締め切りもクリアし、個展自体もすでに終了したというのに
「ロマネスクの後陣」は、まだ下描きが終わっていません。
この間、何をしていたかと言いますと…。




本日の仕事場の様子です。

「ロマネスクの後陣」が、多少は進んでいるでしょう?
まだ右側の石が描いてありませんが、一通り描けましたら下描きの1回目としてアップします。
この作品は、鉛筆・薄墨などの下描きを描けるだけ描いてから彩色に入ろうと考えていますので
一通り描いたところで1回目、彩色に入る前に2回目という具合に2回に分けて下描きを掲載する予定です。


で、「ロマネスクの後陣」の前に5点の小品が置いてありますね。
現在は、これらの小品を主に描いているのです。
大きさはすべてサムホール。
パステルで描いているのですが、少し変わった手法を使っています。

ジークレー+手彩色、あるいは手彩色したジークレーとでも言いましょうか。

過去の作品、あるいは写真をデジタル加工したもの
それを和紙にインクジェットプリンタでプリントし、主にパステルで彩色をしているのです。
ジークレーとは、インクジェットプリンタでプリントした作品のことです。


それでは、今回は1点だけご紹介します。
上の写真の「ロマネスクの後陣」に立てかけてある赤いシクラメンです。




これは私が撮影したシクラメンの写真をパソコンで加工して作った画像です。
これを土佐麻紙の裏にプリントし、パステル・パステル鉛筆で彩色していきます。
この作品は写真ベースですが、他の4点は過去の作品をベースにしています。




まだ仕上がっていませんが、今日の状態です。
元になった画像とは、だいぶ変わっています。
手彩色したジークレーとは言っても、ジークレーはほとんど隠れてしまいますので
私の場合は下地としてジークレーを使っているだけと言えます。

今回新たに始めたジークレー+手彩色には、技法上いくつか注意すべき点があります。
その具体的な説明・詳細は後日改めて記事にします。 


インクジェトプリンタを使うなんて安っぽくない?
そういう疑問の声が聞こえてきそうですが
仕上がった作品を展覧会で実際にご覧いただき、判断して頂くしかありません。
11月下旬に長野県諏訪市のギャラリー橋田で開催される「洲羽の会小品展」には
少なくとも1点は出品する予定でいますし、来年の個展には何点か出せるようにしたいと思っています。

最近パステルで描くことが多くなり、だいぶパステルの要領も分かってきました。
そして土佐麻紙の使用、ジークレーの応用などが重なり
パステルが以前にも増して面白くなり、私に合った画材なのではないかと感じています。
今後は日本画とパステルの二本立てで行くのも良いかなぁ…とも思い始めているのです。

-------------- Ichiro Futatsugi.■


2014年 11月1日 土曜日

$
0
0
■ ロマネスク聖堂の後陣 40号 100x85cm (第2回)

ロマネスク様式の聖堂の、3連の後陣を描いています。
モデルは特定の聖堂ではなく、スペインはマタデペラのサン・ロレンソ・デル・ムント修道院と
イタリアはサン・レオのサンタ・マリーア・アッスンタ教会の、二つの聖堂の後陣をベースとして創作したものです。





下描きの1回目が、ようやく10月中に終わりました。
が、とりあえず何も描いていないところがなくなったというだけです。
小品の制作の合間を縫って…というような状態ですので、描き始めてから2ヶ月も経ってしまいました。

石を一通り描くことが主眼ですので、この作品の肝である量感や全体のバランスなどは考慮していません。

所々に色が見えますが、ひたすら鉛筆で石を描いていると飽きて集中力が落ちてきますので
気分転換を兼ねて、時々水彩で色を入れていました。

空は、アイボリーブラック+ダイヤモンドブラックを軽く置いています。
夜景にするつもりはないのですが、空はほとんど真っ黒にする予定です。

いつもでしたらこのくらいで彩色に入るところですが、今回はさらに下描きを続けます。
鉛筆や薄墨などで、描けるだけ描いておこうと思っています。
年内の仕上げを目指していますが、この調子では難しいかもしれません。




■ ジークレー下地のパステル画について

インクジェットプリンタを使って版画や複製を作る手法をジークレー(ジークリー)と言います。
あるいはピエゾグラフという呼び方もあります。

インクジェットプリンタでプリントした和紙にパステルで彩色をするという新たな試みを前回ご紹介しました。
前回はジークレー+手彩色という言い方をしましたが
ジークレーはかなり隠れてしまうことが多いので、ジークレーを下地として使ったパステル画と言う方が適当かもしれません。

初めての試みですので、事前にテストをし、現在は8点を制作中です。
こういうことをしている人は少ないと思いますので
事前のテストや実際の制作で気づいたこと・問題点などを書いてみようと思います。


私が使っているプリンタは4色の顔料インクで、ごく普通に市販されているものです。
ご存知のようにインクには顔料と染料がありますが
染料インクでプリントしたものは水がかかると染料が滲んで画面が崩れてしまいます。
パステルだけで描くのであれば染料インクでも大丈夫だとは思いますが
岩絵の具や水彩などの水性絵の具で描く可能性がある場合には顔料インクは必須です。


前回掲載しました赤いシクラメンのプリント用画像を再度ご覧いただきます。



この画像は、私が撮影した写真を画像ソフトで加工したものですが、意図的に彩度を落としてあります。
顔料インクは染料インクよりも耐久性はあるということですが(それぞれに長所・短所があります)
インクジェットプリンタ自体が普及してからあまり時間が経っていないので正確なところは分かりません。
経年変化によって退色する可能性を考慮し、なるべく彩度の高い色は使わない方が無難と判断して彩度を落としました。
彩色のベースなのですから白黒だけでも充分でしょう。

紙は、日本画の場合同様、土佐麻紙の裏を使っています。
最近は土佐麻紙を使う人が増えているということですので
その裏が、どれだけ凸凹であるかご存知の方も多いと思います。
ワトソンなどの水彩紙以上の凸凹です。




A4サイズの紙にサムホール大でプリントすると、画面と余白の割合はこのようになり、2~3cm幅の余白ができます。
今回は、すでにサムホールのマットを切ってある額を使うことが決まっているためサムホールで描いていますが
規格サイズに限って言えば、サムホールより1サイズ大きい3号ですとFは取れず、Pでは余白が1cm程度となります。
よって、余白も充分取ろうと思うと、A4ではサムホールか0号のみとなります。
(2号、1号も寸法が規定されていますが一般的ではありません)
プリント後はパネルやベニヤ板に水張りして制作しますので、その張り代に2mmほど取られますし
後々の額装を楽にするためにも、やはり余白は2cmほどあった方が無難だと思います。

因にA3サイズのプリンタですと、4号まで余裕のある余白を持ったプリントができます。
もちろん、もっと大型のプリンタを使えば、さらに大きな画面も可能なのですが…。

凸凹のある土佐麻紙の裏にも問題なくプリントできますが
プリントした画面の画質は、プリンタ用紙の「普通紙」レベルです。
印刷設定を写真専用紙などの高画質に設定したらどうなるかはテストしていませんが
凸凹のある和紙にプリントするのですから高画質は望めないと思います。
版画や複製を作る場合は、高解像度の画像を用意し、高精細のプリンタで、再現性の良い紙にプリントする必要がありますが
パステルで描き込むことを前提としていますので高画質は必要ないのです。



私が使っている土佐麻紙はドーサ引きされたものですが、プリントすると一つ問題が発生します。
ドーサが抜けるのです。
事前にテストしたところ、一般的なドーサ引きの雲肌麻紙では、ほぼ完全に抜けてしまいます。
土佐麻紙は厚いせいか完全には抜けないようですが、かなり水分を吸い込むようになります。
パステルだけの彩色で仕上げるならば、それでも大丈夫だと思うのですが
岩絵の具や水彩のような水性絵の具を使う可能性がある場合は彩色の前に滲み止めの処理が必要になります。

ドーサが抜けたらドーサを追加するのが一般的ですが
ドーサは紙の柔軟性を損ないますので、なるべく使いたくないのです。
そこで、普段部分的にドーサが抜けた場合に使っているアクリル絵の具用のメディウムを使用することにしました。

まず、マットメディウム(つや消しメディウム)を薄めたものを浸み込ませてドーサ代わりとし
さらに、天然白亜をマットメディウムで溶いたものを薄めて塗布しました。
白亜は石灰岩が風化したものを精製した白色顔料です。
白色顔料を使ったのは下塗りということではなく和紙の光沢を抑えるためです。
和紙の繊維には意外と光沢があり、ドーサ引きされたものは更に光沢が増します。
絵の具やパステルの粒子の間から紙が透けていると
見る角度によっては光を反射して目立ち、絵が見えづらくなることがあるのです。
因に、白亜を使うのは私が胡粉嫌いで持っていないという理由だけですので、胡粉でも大丈夫です。


パステルの定着には普通にフィキサチーフを使っています。
これによるプリント画面への影響はないようです。
フィキサチーフは合成樹脂を溶剤に溶いたものですが
溶剤にはアルコール系と石油系があり、私はアルコール系を使っています。
石油系のものはテストしていませんので、プリント画面への影響は不明です。





本日の仕事場の一角です。
8点の内、写真ベースのものが3点、過去の作品ベースのものが5点です。

例えば、一番上に並ぶ2点はまったく同じ画像をプリントし、色調と雰囲気を変えて描いています。
これは過去の作品をベースにしたもので、モチーフはイタリア・アッシジのサン・フランチェスコ聖堂。
こういう風に、同じ構図でいろいろ試したい場合にプリントは便利なのです。
各々の作品につきましては、仕上がりましたら掲載する予定です。

-------------- Ichiro Futatsugi.■

「洲羽の会」 絵画 小品展のご案内

$
0
0
私が講師を務める長野県諏訪市の絵画教室の
私と受講生の皆さんによる小品展を開催いたします。
今年6月に初の作品展を開催しましたが、今回は小品のみの展覧会になります。
お忙しいこととは存じますが、是非ご来場いただけますようご案内申し上げます。









受講生の出品点数は約40点。
私の出品点数は10点くらいになろうかと思います。

さて、私の新作なのですが
先日来ご紹介していますジークレー下地のパステル画8点の内、仕上がり間近なのが6点あります。
ただ、今回は額の都合などもあり、その内の1、2点しか出品できないと思います。
今回出品できないものは来年の個展で展示する予定です。

その6点は以下の通りです。
すでに落款が入っていますが、現在最後の詰めをしていますので縮小版の掲載にとどめます。
1点1点につきましては後日改めて掲載するつもりです。







6月の「洲羽の会絵画展」のご案内記事はこちら。
教室の様子などを載せていますので、どうぞご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/futa2560/e/13ca333f82c989b9601dea4ecf6dc7d0

絵画教室の詳細・受講案内などはギャラリー橋田のホームページをご覧下さい。
受講生の作品ギャラリーもあります。
http://www.hashida.jp

なお、小品展終了直後の12月6日(土)・7日(日)に、今年最後の教室を開講いたします。
教室の見学は自由ですので、お気軽に立ち寄りください。
おそらく、小品展の展示作品はそのままにしておくと思います。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

2014年 12月8日 月曜日

$
0
0
まずは御礼から。
長野県諏訪市・ギャラリー橋田での「洲羽の会 絵画 小品展」は12月5日に終了いたしました。
ご来場いただきました方々には心より御礼申し上げます。

今後、「洲羽の会 絵画展」および「洲羽の会 絵画 小品展」は、年一回のペースで開催する予定です。
さしあたり、「第二回 洲羽の会 絵画展」は来年6月頃を予定しています。
是非またご来場いただけますようお願い申し上げます。




■ ロマネスク聖堂の後陣 40号 100x85cm (第3回)




しばらく間が空きましたので、まずは前回11月1日の状態から。
鉛筆と、一部絵の具による下描きが一通り終わったところです。
一通りというのは、とりあえず何も描いていない箇所がなくなったという意味でした。

そして今回は、そこから更に描き込んだ下描きの2回目を掲載する予定でした。…が!
予定を変更して彩色に入っています。
鉛筆と薄墨で石の描写を続けていたのですが
壁のベース色くらいは今の段階で入れておいた方がいいと思い直し、急遽彩色を始めたのです。






11月23日の状態。

石の描き込みを中断して色を入れたので、ご覧の通り中途半端な状態になっています。
左半分はカッチリしてきていますが、右半分は1回目の下描きのままですので、形の締まりがなく平べったく見えます。

壁に使っている色は、若葉白緑の黄口、薄黄の13番、この2色。
空と窓にはコバルトブルーを入れています。
若葉白緑は白番ですので微粒子、薄黄の13番も細かい方です。
細かい粒子の絵の具は下描きを覆い隠してしまいやすいので、石の輪郭が若干ぼんやりしています。






現在の状態。

そして、再びの方向転換です。
地色を入れた後は、再び白黒のみで石の描写を続けるつもりでしたが
いつもとは少し違う進め方を試してみたくなりました。

画面の上の方から、色も使って、仕上がりに近い描き込み密度で徐々に描き進めています。
下半分は全く手が入っておらず、11月23日の状態と何も変わっていません。
極めて部分的な描き進め方ですが、前々から試してみたいと思っていたのです。
このくらいの密度で描き進めた後、全体を見渡し、バランスが崩れているところを調整して仕上げるつもりです。







■ ジークレー下地のパステル画

ジークレーとは、版を必要としない版画・複製の技法で
フランス語で「吹き付けて色を作る」という意味があります。
その意味が示すように、インクジェットプリンタを用いて作るものです。
ですから、デジタル画像が版ということになります。

私の場合はジークレーを作品の下地として使用しており
まずパソコンで下描きに相当する画像を作成し
それをインクジェットプリンタで和紙にプリントしパステルで彩色しています。

技法や手順などはすでに記事にしてありますので、こちらをご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/futa2560/e/0fda84655bf0c3ba862c69d00ed089be

プリントする画像は、写真ベースと作品ベースがあります。
写真ベースは、写真を加工したもの。
作品ベースは、過去の作品画像を加工したものです。


ジークレー下地のパステル画6点が仕上がりました。
作品のサイズは、すべてサムホール(22.7 x 15.8cm)です。




 ◎ 雪の夜 (作品ベース)



仕上がり画面です。






これが原画です。
10数年前の作品で、長野県諏訪市から八ヶ岳を望んだ冬の風景です。
これをパソコンで加工してプリント用の画像を作成します。





プリント用の画像です。
原画の画像にいくつかの修正を加え、サムホールのプロポーションに直してあります。
これをA4サイズの土佐麻紙の裏にプリントし、パステル・パステル鉛筆で彩色します。







 ◎ 池畔・初夏 (写真ベース)



仕上がり画面です。






これが元になった写真で、長野県・茅野市郊外の御射鹿池(みしゃがいけ)で撮影したものです。
これをパソコンで加工して、私のイメージに近い画像を作ります。






パソコンで作ったプリント用の画像です。
実際はもっと色鮮やかなのですが、このくらい彩度を落としてプリントします。






再び、仕上がり画面です。
この作品は、プリントした画像ができるだけ透けて見えるように、薄手の彩色を主体にしています。
高原の池の初夏の爽やかさを出したかったからですが
パステルというものは、パステルカラーという言葉から受ける軽やかなイメージとは裏腹に
意外と重厚でコッテリとした絵肌になりやすいような気がするのです。




 ◎ グラスローズ (作品ベース)



左がプリント用画像、右が仕上がり画面です。
プリント用画像は、鉛筆デッサンの画像にパソコンで軽く色をつけたものです。





その他の3点は仕上がり画面のみを。



 ◎ 池畔・早春 (写真ベース)



前出の「池畔・初夏」と同じく長野県・茅野市郊外の御射鹿池で撮影した写真が元になっています。




 ◎ 水明 (作品ベース)



これも10年ほど前の作品をベースにしたもので、長野県・安曇野の田園風景です。




 ◎ 唐紅 (写真ベース)



すでにご紹介済みの赤いシクラメンの仕上がりです。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

マドンナ・デル・パルト 懐妊の聖母  第1回

$
0
0



数年前、本棚を整理していたら、こんなものが出てきました。
横8cm、縦6cmの紙片です。
印刷された文字はイタリア語なのですが、何が書いてあるかというと…





冒頭のモンテルキは地名。
小さな村の名前です。

アレッツォ県とは、イタリア・トスカーナ州の中の自治体の一つ。
イタリアの場合、日本の県に相当するのが州で
県はその下に位置し、日本で言えば郡のような感じでしょうか。

モンテルキとは、イタリア・トスカーナ州アレッツォ県の片隅にある小さな村の名前なのです。

古都フィレンツェを州都とするトスカーナ州の東の端に位置し
ペルージャを州都とし、聖都アッシジを擁するウンブリア州との州境にあります。
下の地図の赤丸の位置がモンテルキです。






ピエロ・デッラ・フランチェスカは15世紀に活躍した初期ルネサンスの画家の名前。
《マドンナ・デル・パルト》は、彼の描いた作品の名前です。

この紙片は、モンテルキの村外れにある小さな墓地礼拝堂の入場券です。
日付の刻印はありませんが、これは1990年頃のものです。
すでに四半世紀も昔のことになろうとしています。

当時その礼拝堂には、ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画「マドンナ・デル・パルト」がありました。
「マドンナ・デル・パルト」は、「懐妊の聖母」 あるいは 「出産の聖母」と邦訳されます。
イエス・キリストを懐妊した聖母マリーアの姿を描いたものです。
私は若い頃から「懐妊の聖母」という訳語に慣れていますので、この記事ではそれを使います。

しかし、礼拝堂の名前はどこにも書かれていません。
ピエロと彼の作品の圧倒的な知名度に隠されて、礼拝堂の名前は忘れられてしまったかのようです。
ですから、この紙片は礼拝堂の入場券と言うよりも、「マドンナ・デル・パルト」という絵の観覧券と言うべきでしょう。
この名も知らぬ小さな礼拝堂を「モンテルキ墓地礼拝堂」と、ずっと私は呼び習わしてきました。

入場料は500リラ。
ユーロ導入後に初めてイタリアを旅行された方は、リラと言われてもピンと来ないかもしれません。
私が旅した当時はユーロ(イタリア語ではエウロ)が導入される前で、イタリアの通貨単位はリラでした。
当時の為替レートで500リラは50円くらいに相当しました。
50円というだけあって、入場券は薄いワラ半紙のような安っぽい紙が使われています。
元々は薄いブルーグレーだったものが、すっかり変色が進んでいて25年近い歳月を感じさせます。

500リラと言えば…
余談になりますが、今は無くなってしまった500リラ硬貨をご紹介します。

だいぶ黒ずんで写ってしまいましたが、直径2.5cmの金色と銀色のバイメタル硬貨です。
現在使われている2ユーロ硬貨がこれとよく似ていますし、1ユーロ硬貨は色が逆になります。
私はこの500リラ硬貨がとても気に入っていて、イタリアから10個以上は持ち帰っており
お土産代わりに差し上げたり、お守りとして運転免許証ケースなどに入れています。


さて、前置きはこのくらいにして…


私は縁あって「マドンナ」のいる礼拝堂に何度か行く機会がありました。
おそらく、イタリアで私が見てきた絵画の中で一番接した時間の長いのが「マドンナ」だと思います。
特に好きな作品というわけではないですし、ピエロが特に好きな画家というわけでもないのですが
そのせいか、私には旧知のお姉さんというような親近感があるのです。

この作品は1992~3年にかけて、ピエロの没後500年を記念して修復が施されました。
ピエロが亡くなったのは1492年のことです。
そして、それを機に礼拝堂を離れ、現在はモンテルキに新設されたマドンナ・デル・パルト美術館に移されています。
つまり、現在、礼拝堂に「マドンナ」はいないのです。
私が「マドンナ」に会ったのは、すべて修復前。
修復後は、いまだに1度も会う機会がないままです。

2010年、北イタリア在住の友人shinkaiさんより修復後の「マドンナ」の絵葉書が届きました。
shinkaiさんはその年にイタリア中部を旅された折り、モンテルキの美術館で修復後の「マドンナ」に会ってこられたそうです。
羨ましいなぁ~という私の叫びが聞こえたようで、わざわざ絵葉書を送ってくださったのです。
shinkaiさんはその年のクリスマスにブログで「マドンナ」の記事を書いておられます。
作者ピエロ・デッラ・フランチェスカのこと、モンテルキの様子など、是非こちらの記事をご覧いただきたいと思います。
http://italiashio.exblog.jp/12569796/



絵葉書に写っている「マドンナ」の姿は衝撃的でした。

修復後の姿は何かの本に載った小さな写真で知ってはいましたが、やはり衝撃的でした。
旧知のお姉さんの写真を久しぶりに見たら大変身を遂げていた…。
その変身ぶりはあまりに刺激が強すぎるというものでした。
私は絵葉書を、食い入るように、舐めまわすように、まじまじと眺めたものです。


それでは、まずは「マドンナ」の現在の姿から。




精霊によってイエス・キリストを受胎した聖母マリーアが中央に立ち
二人の天使が天幕を開いて、救世主を身籠った聖母をお披露目している(?)ような画面です。
聖母のお腹は、明らかに膨んできています。

こういうキリスト教絵画は、たいていが新約聖書から題材を取っているものですが、このような場面は書かれていません。
研究者によっては、これは受胎告知のピエロ的表現だとする意見もあります。
受胎告知でしたら「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に出てきますし
様々な画家が秀作を残していることはよく知られているところです。




フラ・アンジェリコの「受胎告知」

この絵のように、通常の受胎告知では大天使ガブリエルが聖母マリーアに対して受胎したことを告知する構図ですが
「マドンナ」では天使と聖母が一丸となって、絵を見ている我々に向かって受胎したことを告知していると言えます。



  


聖母は、あからさまに困惑したような表情をしています。
天使から突如懐妊を告げられ、しかも身ごもった子は神の子。
思わぬ出来事に戸惑いを隠せない様子が伝わってきます。

聖母は明らかにお腹が膨らんでいますので、受胎告知より少し時間が経過した場面のように感じますが
この聖母の表情を見ると、直前に告知を受けたばかりのようにも思えます。
あるいは、大天使ガブリエルに促されて全人類に対してメシア懐胎を披露するステージに立たされ
「なぜ私が…」と、お腹の膨らみ具合に比例して戸惑いが更に募るばかりという様子なのかもしれません。

この聖母は、他の聖母とは一線を画す、極めて人間的な描かれ方をしています。
聖母像というより、一人の女性の肖像と言ってもいいような趣です。
私たちが普通イメージする聖母とはだいぶ異なります。

私たちが思い浮かべる聖母の姿と言えば、例えば…



レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子のカルトン」(部分)
左から聖母マリーア、聖母の母アンナ、イエス・キリスト、洗礼者ヨハネ




ラファエッロ・サンツィオの「小椅子のマドンナ」
聖母子と洗礼者ヨハネ。


このような、包み込まれるような慈愛に満ちた微笑む聖母の姿でしょう。
そして、どれもが現実味の乏しい超美形に描かれています。
レオナルドにしてもラファエッロにしても、ピエロより少し後の盛期ルネサンスの人です。

ピエロより少し前であれば、例えば…



シモーネ・マルティーニの「受胎告知」(部分)



時代により、作者により、聖母の姿は様々にイメージされてきましたが
いずれも、神の子イエスの生母としての特殊性・崇高さを強調し神格化しているようです。
これらに比べると「マドンナ・デル・パルト」の聖母は、どこにでもいそうな、ごく普通の女性に見えます。
もちろん、これらの作者は誰も聖母に会ったことはありません。
いずれも作者の創作した理想像なのですが、ピエロだけは際立って一般人のような姿に描いているのです。


ピエロが生まれる150年ほど前、同じくイタリアにジョットという画家が現れました。
イタリア・パドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂の壁画などが有名です。




ジョット・ディ・ボンドーネの「エジプトへの逃避」 スクロヴェーニ礼拝堂壁画の一部


それまでの西洋絵画は、東ローマ帝国を中心に発展したビザンティン絵画の影響を色濃く受けて
イエスや使徒・聖人などの肖像は、様式化され、威厳に満ち、威圧的とも感じられる雰囲気をたたえていました。
ジョットは、それらに比べると土俗的とも言えるような素朴さを以て、より現実的で、親しみの持てる人物を描いたのです。
「初めて人間を描いた」と評されるジョット以降、西洋絵画は現実的・写実的表現に突き進みます。
盛期ルネサンスで一つの極みに達しますが、しかし、高度に洗練され過ぎたが故か
ビザンティン絵画のような威圧感こそありませんが、別の意味で非現実的で近寄り難い雰囲気の画面が多くなっているように思います。

そのような絵画史の流れの中で、ピエロの立ち位置は特異だと思います。
遠近法導入の過渡期にあって、それを積極的に取り入れ先進性は示しているものの
遠近法や写実的表現にまだ不慣れであったためか
人物は歪んでいて、作為的でぎこちないポーズを取っているものが多いのですが
しかしそれは、ある意味で素朴で、親しみやすさを感じさせ、人間味に溢れています。

ピエロはジョット的であるような気がします。
作風は大きく異なりますが、人間を描こうとしたという意味ではジョットとは共通性があるように思います。
そして、ピエロの作風は「清新」という言葉がとてもよく似合うと思います。
軽やかで明るく、澄み渡った空気に包まれていて、とても500年前の画家とは思えないほど近代的感性を持っています。

そんなピエロが描いた聖母ですから、人間味に溢れているのは当然だと思われますが
殊更一般人風に描いたのには、まだ他にも理由があるようなのです。

「マドンナ」のあるモンテルキは、ピエロの母親の出身地なのです。
ピエロは母が嫁いだサンセポルクロの街で生まれました。
サンセポルクロはモンテルキから17キロほど離れています。
そして母親は、「マドンナ」のいた礼拝堂のある墓地に埋葬されたのです。

「マドンナ」の聖母はピエロの母親の面影を写し込んでいると言われています。
本当に母親に似せて描いたのか、母親の眠る地にあるからそのような伝説が生まれたのか
そのあたりは定かではないのですが、見れば見るほど、さもありなんと思えてくるのです。




さて「マドンナ・デル・パルト」の現在の姿をご覧いただきましたが
私が墓地礼拝堂で会った当時は、あのような姿ではありませんでした。
では、私が慣れ親しんだ「マドンナ」はどういう姿をしていたのかというと…。



墓地礼拝堂にあった当時は、このような画面でした。
飾りっ気のまったくない礼拝堂の白い壁に、1点だけポツリと掛けられていたように記憶しています。
私はこの姿しか見たことがないのです。

比較しやすいように修復前後を並べてみます。



右の修復後の画像は、修復前の状態に合わせて時計回り(右)に1.5度ほど傾けてあります。

修復後の姿に衝撃を受けた…という私の感慨をご理解いただけることと思います。
修復前に比べると、だいぶ小さくなっています。
なぜこんなに小さくなったのでしょうか。

修復前の画面には多くの欠損が見て取れます。
左右の天幕の裾の外側は図柄が完全に消えてしまっています。
それに、天幕の上半分と下半分とは一体感がありません。
表現がまるっきり別物のように見えますし、上下の間には亀裂が見えています。

「マドンナ」は今回の修復以前に大きな損傷を受けて、すでに修復が施されていたわけです。
そして、修復前の画面全部がピエロの描いたオリジナルではないのです。

1992~3年の修復ではオリジナルだけが残されることになりました。
修復後の画面から消えてなくなってしまった部分は後補( こうほ )です。
後補とは、後世に施された補修・加筆を言います。
つまり、これだけしかオリジナルが残っていなかったわけです。
(ただし、左右の天使の靴など、一部は後補が残されています)

両者を見比べると、修復後の方がスッキリとして見やすい画面なのは明らかです。
後補の部分は質が高いとは言えず、オリジナルの「マドンナ」の印象を変えてしまっています。
オリジナルの姿を歪めてしまうような、雰囲気を損なうような後補は現代の修復では厳禁です。
絵画作品としては、このような後補は無い方がいいに決まっています。
この修復方法は現段階ではベストだったと言えるでしょう。

先ほど衝撃的だった…と書いたのは、修復方法に疑問があったわけではありません。
いくら後補が目障りであったとしても、修復前の姿しか知らず、それに慣れ親しんだ私には
それらを含めての「マドンナ」の面影なのです。
修復後の姿を初めて目にしてまだ日が浅いために
「マドンナ・デル・パルト」と言われれば、まず修復前の姿が浮かびます。
修復後の姿が真っ先に浮かぶようになるには、まだしばらく時間が必要でしょう。




さて、私の見た修復前の画面はアーチ型をしていました。
祭壇画をはじめ、当時アーチ型の絵は珍しいものではありません。
修復によって後補を除去したことは分かりましたが
修復後の姿はアーチ型をしていません。
アーチ型まで消してしまったのはなぜでしょうか。
修復前は後世に取り付けられた細い木枠が額縁のようについていました。
ですから、後補の木枠そのものは除去しても当然です。
しかし、そうなると元々の「マドンナ」全体の形がわからなくなってしまいます。
除去したということは、元々はアーチ型ではなかったということなのでしょうか。
アーチ型ではあっても大きさが違うということなのでしょうか。

画面には多くの欠損部があり、亀裂も入っているなど、かなり傷んでいます。
なぜ「マドンナ」はこんなに損傷してしまったのでしょうか。
そして、元々「マドンナ」は、どのような姿だったのでしょうか。

見れば見るほど、いろいろと疑問が浮かんでくるのです。




今回から4回に渡って「マドンナ・デル・パルト」について書いていきます。

第2回(21日アップ)では、この作品の構図法から始まって、作者ピエロにはどういうイメージがあったのか

第3回(23日アップ)では、これほどまでに損傷してしまった「マドンナ」の辿った数奇な運命を

第4回(25日アップ)では、描かれた当時の姿はどのようなものだったのか

これまで私の知り得た範囲、気づいた範囲で追いかけてみようと思います。

ただし、この記事は「マドンナ」についての学術的な定説・推測を紹介するものではありません。
それらを下敷きにしながらも、あくまで私個人の解釈・想いを綴ったものとなっています。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

マドンナ・デル・パルト 懐妊の聖母  第2回

$
0
0


ピエロ・デッラ・フランチェスカ作「マドンナ・デル・パルト(懐妊の聖母)」
この作品は1992~3年に修復が施され、大きく姿を変えました。
左が修復前の状態、右が修復後の現在の姿です。




  ■ 左右対称の構図

ところでこの作品、聖母以外の構図が左右対称であることは誰でも分かります。
天使のポーズも、天幕の形も、その模様も、左右を見比べると、とてもよく似ています。
左右対称の構図なのだから似ていて当然と最初は特に気にしていなかったのですが
子細に観察すると、極めて高精度に、コピー&ペーストしたかのようにそっくりなのです。

そこで試しに、聖母を除く右半分の画面をコピーし、それを左右反転して左半分の上に重ねてみたのが下の画像です。
上に置いた画像は不透明度を半分近くまで落として、下の画像の色が透けるようにしてあります。



見事なまでに、ほぼ完璧とも言える精度で一致します。

一見しただけでは、左半分が合成画像であるとは思えないほどです。
全く違う画像を重ね合わせると、何が写っているのか分からないほどボケボケになります。
右半分に比べると多少はボケて鮮鋭度が低くなっていますが
明確に図柄がズレていると認識できるのは天使の下半身、特に足の位置くらいのものです。

ここまで一致するということは、通常の描画方法では考えられません。
先に描いた片一方を見ながら、あるいは計測して描いたとしても、これほどまでに一致させるのは至難の業です。
数学や幾何学に並々ならぬ関心があり、それらに関する著作さえ残している理論派ピエロは、何か特殊な手法を使って描いたのでしょうか。

数学や幾何学を応用した手法で描かれたものならば、その解明は私の手には負えませんが
それらを知らなくとも、一つだけ、すぐに思いつく手法があります。

型紙を使う方法です。

反復する図像を描くために型紙を使うことは珍しいことではありません。
特に細密な装飾文様を描く場合には、一つ一つ手描きで描くよりも、作業効率も、図柄の精度も飛躍的に向上するのは明らかです。
絵画においても、例えば日本画の世界でも、尾形光琳の代表作「燕子花図屏風(根津美術館)」では
燕子花の花の中に、まったく同じ形のものが散見され、型紙を使ったことが知られています。

「マドンナ」も、ここまで完璧に左右対称に描かれているということは
天使も天幕も、一枚の同じ下図から描かれたことを物語っていると言えます。
下図を片方だけ描いて、もう片方はそれを裏返して使っているのです。
いくらピエロでも、左右を別々に描いたら、ここまで一致させることは不可能です。

ピエロは、なぜこのような構図にしたのでしょうか。
型紙を使えば制作時間を節約できます。
それもあると思いますが、それだけの理由なのでしょうか。

*因に、聖母のポーズも多分に左右対称を意識しているものと思われます。
右手をお腹に当てているのは自然ですが、左手は腰に当ててポーズを取っています。
普通は両手をお腹に当てるでしょう。
登場人物が作為的と思えるポーズを取るのがピエロの作品の常ですから
これもピエロ一流の演出かとも思えるのですが
左手を腰に当てることによって、聖母のシルエットは
斜め前を向いているポーズにも関わらず、全体としては左右対称に近くなっているのです。
しかし、今回はこの件に関しては、これ以上は追求しません。





  ■ 二人の天使は誰と誰か?

天幕を開く二人の天使は、片方を左右反転してもう片方に重ねると、ほぼ完全に重なりました。
これは同じ下図を使って描かれたとしか説明がつきません。
しかし、二人の天使は形は同じですが、衣服・羽・靴の色は違います。
同じ配色では芸がない、別々の天使だから色を変えた…ということでしょうか。
もう一度、先ほどの合成画像をご覧ください。



左の天使の色をご覧になって、何か気づきませんか?
羽も衣服も彩度が落ちてグレーに近くなっている気がしませんか?
靴も、重なっている部分はグレーに近くなっています。
彩度を落とす画像操作はしていません。
両方の天使を重ね合わせると、皮膚以外の色はグレーに近くなった…。
これは重ね合わせた両者の色が補色関係、あるいはそれに近いと言えるのではないでしょうか。




これはマンセルの色相環と呼ばれるもので、相対する位置にある色が補色関係になります。


例えば、左の天使の衣服は緑、薄い黄緑に近い色ですが、大雑把には緑。
緑と補色関係にある色は紫です。

右の天使の衣服は一見茶色に見えますが、天幕の色と比較すると明らかに色相が違います。
天幕の色は茶色と言っていいと思いますが、天使の衣服は紫がかって見えます。
少なくともピエロは茶色とは別の色として使っています。

紫がかってはいますが、これは紫なのでしょうか。

天然顔料が主体であったピエロの時代、彩度の高い紫は存在しなかったはずです。
人造顔料であるコバルトバイオレットのような鮮明な紫色の天然顔料はないのです。
紫は、紫がかった天然の土(代赭・弁柄などの紫味の強いもの)を主に使っていたと思われます。
ですから、右の天使の衣服は紫と解釈しても良さそうです。

マンセルの色相環で似た色を捜すと10Pという色が該当します。
この補色は10GYで黄緑です。



では、左の天使の衣服・羽・靴を色相反転してみましょう。
色相反転とは、色を裏返しにする、つまり補色関係にある色に変換することです。


一番左が現状、二番目は単純に機械的に色相反転したものです。
衣服と羽と靴をまとめて同時に操作しています。

当然のことながら、衣服は薄い紫になります。
しかし、当時はこのような鮮やかな紫はなかったはずです。
そこで、ピエロが紫として使ったと推測される右の天使の衣服の色に近づけるために
さらに少し色調補正と明度補正を加えてみたのが右の全体図です。
すると、衣服だけではなく羽も靴も右の天使と似た色になりました。

左右の天使は同じになった。

そう言っていいのではないかと思います。
違うのは明度くらいのものです。

色に関して、一つ補足説明をしておきたいことがあります。
左の天使の靴は鮮やかな赤茶色ですが、これは後補の可能性が高いのです。
なぜなら、この色だけが飛び抜けて強く、目立ち過ぎて画面から浮いて見えるからです。
靴の形はかなり欠損していて後補であることが分かっています。
おそらくその際に鮮やかな色を描き加えたものと思われます。
右の天使から推測して、左の天使の靴の色は、羽と同じような色であったろうと思います。
そうなれば、二人の天使の靴の色も、ほぼ一致することになります。
(このことに関しては後述します)
羽の明度が違いますが、この場面は左の方から光が当たっていますので
身体の右側に位置する羽が陰になって暗くなるのは当然なのです。



ピエロは、一枚の下図を裏返して使って天使や天幕を描き
天使の配色では色までをも裏返していると思われるのです。
二人の天使を補色関係にある色で構成しているのです。
もちろん、ピエロの時代に厳密な補色の定義はなかったと思いますが
補色の意味するところは知っていたのではないかと思います。
ですから、ピエロの配色は厳密には補色関係とは言えませんが
感覚的には補色であると言っていいと思います。
絵画は理屈ではなく感覚の産物なのですから。

では、なぜピエロは補色関係にある色を使って配色したのでしょうか。
他にも様々な配色ができたはずです。
少なくとも天使の配色に関して、これが一番魅力的な配色であるとは思えないのです。
ピエロは意図的に補色関係にある色を使って天使を描いたのではないでしょうか。
そのピエロの意図とは何なのでしょうか。

二人の天使を補色関係にある色で構成したということは
左右の天使の服の色・羽の色・靴の色をそれぞれ混ぜ合わせれば、すべて同じ色、グレーになります。(ただし、明度は異なります)
皮膚を除いて、上から下まで全部同じ色になるのです。
二人の天使は顔もポーズもそっくり同じに描かれています。
そこから考えられることは…。

この二人の天使は、同じ天使なのではないか。

二人いるように描いていますが、ピエロは両者を同一の天使が分身したものとして描いたのではないでしょうか。
同一の天使であるならば、同じ配色で描くのが普通かもしれませんが、それでは単純過ぎますから
混色するとグレーになる補色を利用することによって、同一の天使であることを暗示させたように思えるのです。
これは理数系に長けた頭脳派ピエロならではの”遊び心”の成せる業ではないかと思うのです。

聖母に懐妊を告げたのは大天使ガブリエルです。
私は初めてこの絵を見た時から疑問に思っていました。
片方がガブリエルであることは間違いないが、もう一方は誰だろう?と。


この場面を動画風に説明すると、次のようになります。
まず、幕の閉じられた天幕(テント)が建っています。
中にいるのは聖母マリーアと大天使ガブリエルの二人だけです。
聖母の前に立ったガブリエルが幕を開けようとします。
その時ガブリエルの身体は細胞分裂するかのように二つに分かれて
左右に同じスピードで移動しながら静かに幕を開けて行ったのです。

ピエロは、このようなイメージを持っていたのかもしれません。
そのためには、天使を鏡像反転したように、瓜二つの形に描く必要があったのです。
ですから型紙を使ったわけです。
そして、天幕も左右対称ですので、ついでにこれも型紙が使えたのです。

こういう構図に辿り着いたことには、もう一つ理由があると思います。
やはり制作時間の節約を迫られたと思うのです。
当時ピエロは高名な画家で、多忙な日々を送っていたようです。
そこに母親の訃報が飛び込んできました。
ピエロは母親が埋葬された礼拝堂に絵を描きたいと思い立ちましたが、多忙なため充分な時間が取れません。
そこで、作品の質を落とさずに制作時間を短縮できる方法はないかと考えたのです。
そこから生まれた発想が、型紙を多用するこの構図なのではないかと思うのです。
実際、極めて短時間で仕上げられたという伝承もあるのです。

もし、充分な時間があったならば、この作品は別の構図になっていた…かもしれません。




  ■ 存在感の希薄な聖母の衣服

さて、今度は聖母に関することです。




二人の天使に比べると、聖母の身体はずいぶん平板に見えませんか?

色彩も今一つ精彩がなく、服のシワもあまり見えません。
天使に比べると身体の存在感が希薄で、描写も数段見劣りします。
天使の服を新品だとすると、聖母の服は廃棄寸前の着古しにすら感じられます。
両者があまりにも違うため、聖母だけを別に描いて切り取って貼り付けたように見えてしまいます。
これでは同じ空間に聖母と天使が存在するようには見えません。

もちろんピエロがこのように意図して描いたはずはありません。
なぜ聖母の身体は平板なのでしょうか。
それは絵の具が剥落しているからです。
しかし、天使の衣服には大きな剥落が見られないのに(天使の衣服には後世の加筆がないという前提での話ですが)
なぜ聖母の衣服ばかりが顕著に剥落しているのでしょうか。

ご存知のように、通常のフレスコ画は漆喰壁が乾かない内に水溶きした顔料(絵具)で絵を描きます。
壁が乾くにつれて石灰分が染み出して顔料を覆い、空気中の二酸化炭素と反応して固化します。
つまり絵を壁に閉じ込めてしまうのです。
ですから顔料にメディウム(定着剤)を加える必要がありません。
乾いた画面は、たわしで擦っても色は落ちないのです。
しかし、漆喰の石灰分をメディウムとして使うため、必ず壁が乾く前に描き上げてしまう必要があります。
ですから、その日描ける分だけ漆喰を塗って描くことになり、部分的に仕上げて行くという手法を取ります。
これをジョルナータと言い、イタリア語で一日という意味があります。
これが一般的なフレスコ画法でブォン・フレスコ(Buon Fresco)と言います。

これに対して、乾いてしまった壁に描く画法をフレスコ・セッコ(Fresco secco)と言います。
乾いた壁からは石灰分は染み出てきませんので、顔料の定着にはメディウムを加える必要があります。
フレスコ・セッコ画法とは、言い換えればテンペラ画法のことなのです。
狭義のテンペラ画法は、卵の黄身などをメディウムとして使うヨーロッパ伝統の技法を指しますが
広義では、顔料にメディウムを加えて定着させる画法は全てテンペラ画法と言えます。

聖母の衣服は薄い青を使ってブォン・フレスコで描かれた後
濃い青を使ったフレスコ・セッコ画法で仕上げられた可能性があります。

顕著な剥落が見られるのは、聖母の衣服と天幕の右側です。
何らかの理由でこの二ヶ所だけがブォン・フレスコで一通り描いた後
さらにフレスコ・セッコで仕上げられたのだと思われます。
ブォン・フレスコで描かれたものは、顔料が壁と一体化していますので
壁が劣化しない限り、顔料だけが剥落することはありません。
しかし、フレスコ・セッコでは顔料が壁の表面に乗っているだけです。
ですから剥落の危険度は壁の劣化とは関係なく、油絵などの他の絵画と同等なのです。

聖母の衣服の裾の部分には鮮やかな濃い青が残っている部分もありますので
全体にもっと彩度の高い濃い青色をしていたのです。
衣服のシワも含めて、ほとんどがフレスコ・セッコで仕上げられたために、青い顔料と共に剥落したのでしょう。
この青い顔料はアフガニスタンが産地として有名なラピスラズリだと言われています。
いわゆる天然ウルトラマリン・ブルーです。
因に、日本画の群青は藍銅鉱(らんどうこう:アズライト)という鉱物です。

では、フレスコ・セッコで仕上げたものであるならば、なぜそうしたのでしょうか。

これには私なりの答えを出せないでいます。
可能性としては、聖母の衣服を描く段階で中断があったということが考えられます。
何らかの事情でピエロが現場を離れることになり
一通り薄い青で衣服を下描き的に描いておき、戻ってから濃い青で仕上げた…というようなことです。

しかし、何となくピンときません。

もし、すべてブォン・フレスコで仕上げたものであれば、剥落の理由に一つ可能性があります。
顔料の粒子の粗さによって自然に剥落したという可能性です。
濃い青、つまり濃いラピスラズリは粒子が粗いのですが
粗い粒子の顔料が、細かい粒子の顔料と同様に壁に定着するのか?という疑問があるです。
定着性が悪ければ自然に剥落する可能性があります。
テンペラ画法では粗い粒子の方が定着性が悪いのです。
ですから、その可能性もあるかなと思うのですが
私はフレスコ画は専門ではありませんので、その点は何とも言えないのです。
画像で見る限り、この濃い青は日本画用の11番くらいの粒子に思えます。
11番というのは、粗いことは粗いのですが、特別粗いとも言えない微妙な粒子なのです。


因に、フレスコ画では鮮やかな青で描かれた部分が剥落しているケースが多くあります。
それは第1回に掲載したジョットの作品にも見られます。



画面中央でロバにまたがる聖母の衣服です。
少しだけ青い色が残っています。
聖母の衣服は、赤い服の上に青い服を重ね着しているものが多いのです。
このジョットの聖母も、元々はその配色だったものが、青い色だけ剥落してしまったのです。
青の下にある服の色や描写はしっかり残っていますので
この青は明らかに壁が乾いた後にフレスコ・セッコで描かれたものだと思います。


その他の剥落の理由としては、聖母を礼拝に来た妊婦達が触っていたのではないかとも考えましたが
普通、人が触る場所は偏りがちで、「マドンナ」の場合は、当然お腹のあたりということになるでしょう。
しかし、剥落は衣服全面にほぼ均等に見られますので、それも少々現実的ではないなと思うのです。

…と言うようなことで、今のところ濃い青をフレスコ・セッコで仕上げた適当な理由が見つからないのです。





さて、剥落しているのなら本来の衣服はどのようなものだったのでしょうか。
これを元通りに復元するのは無理ですので、お手軽にできる程度の簡単な画像操作をしてみました。
単純に聖母の衣服の彩度を上げてみただけです。



まぁ、雰囲気として、200年前だったらこんな感じかな?という程度ですが
これだけでも聖母の存在感がグッと増しています。
当初は天使と同レベルの描写がされていたはずです。

さきほど、左の天使の靴の色は鮮やか過ぎて後補の可能性が高いと言いましたが
聖母の存在感が上がりましたので彩度を落としてみましょう。



少しぼんやりとさせ過ぎてしまいました。
右の天使の衣服は強く見えますので、画面のバランス上、靴はもっと強く見えるようにするべきでした。
しかし、こちらの方がずっと全体がスッキリ見え、自然と聖母に視線が集まるようになります。
聖母がこの絵の主人公であることを、より明確にしてくれると思います。



さて、聖母だけに復元もどきの画像操作を施してみましたが、こういう風に時間を遡るようなことを試してみると
やはり当初の「マドンナ」全体がどのようなものだったのかが気になってきます。
そして、それ以前に、なぜこれほどまでに損傷してしまったのかが気になります。

次回第三回では、描かれてから今日まで「マドンナ」が辿った歴史を振り返ってみようと思います。
特に「マドンナ」が大きく損傷してしまった原因に主眼を置きます。

この損傷はとても奇妙です。

私にはそう思えるのです。
そこには何か意外な事実が隠されているような気がしているのです。


-------------- Ichiro Futatsugi.■
Viewing all 216 articles
Browse latest View live