Quantcast
Channel: 風色明媚
Viewing all articles
Browse latest Browse all 216

マドンナ・デル・パルト 懐妊の聖母  第1回

$
0
0



数年前、本棚を整理していたら、こんなものが出てきました。
横8cm、縦6cmの紙片です。
印刷された文字はイタリア語なのですが、何が書いてあるかというと…





冒頭のモンテルキは地名。
小さな村の名前です。

アレッツォ県とは、イタリア・トスカーナ州の中の自治体の一つ。
イタリアの場合、日本の県に相当するのが州で
県はその下に位置し、日本で言えば郡のような感じでしょうか。

モンテルキとは、イタリア・トスカーナ州アレッツォ県の片隅にある小さな村の名前なのです。

古都フィレンツェを州都とするトスカーナ州の東の端に位置し
ペルージャを州都とし、聖都アッシジを擁するウンブリア州との州境にあります。
下の地図の赤丸の位置がモンテルキです。






ピエロ・デッラ・フランチェスカは15世紀に活躍した初期ルネサンスの画家の名前。
《マドンナ・デル・パルト》は、彼の描いた作品の名前です。

この紙片は、モンテルキの村外れにある小さな墓地礼拝堂の入場券です。
日付の刻印はありませんが、これは1990年頃のものです。
すでに四半世紀も昔のことになろうとしています。

当時その礼拝堂には、ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画「マドンナ・デル・パルト」がありました。
「マドンナ・デル・パルト」は、「懐妊の聖母」 あるいは 「出産の聖母」と邦訳されます。
イエス・キリストを懐妊した聖母マリーアの姿を描いたものです。
私は若い頃から「懐妊の聖母」という訳語に慣れていますので、この記事ではそれを使います。

しかし、礼拝堂の名前はどこにも書かれていません。
ピエロと彼の作品の圧倒的な知名度に隠されて、礼拝堂の名前は忘れられてしまったかのようです。
ですから、この紙片は礼拝堂の入場券と言うよりも、「マドンナ・デル・パルト」という絵の観覧券と言うべきでしょう。
この名も知らぬ小さな礼拝堂を「モンテルキ墓地礼拝堂」と、ずっと私は呼び習わしてきました。

入場料は500リラ。
ユーロ導入後に初めてイタリアを旅行された方は、リラと言われてもピンと来ないかもしれません。
私が旅した当時はユーロ(イタリア語ではエウロ)が導入される前で、イタリアの通貨単位はリラでした。
当時の為替レートで500リラは50円くらいに相当しました。
50円というだけあって、入場券は薄いワラ半紙のような安っぽい紙が使われています。
元々は薄いブルーグレーだったものが、すっかり変色が進んでいて25年近い歳月を感じさせます。

500リラと言えば…
余談になりますが、今は無くなってしまった500リラ硬貨をご紹介します。

だいぶ黒ずんで写ってしまいましたが、直径2.5cmの金色と銀色のバイメタル硬貨です。
現在使われている2ユーロ硬貨がこれとよく似ていますし、1ユーロ硬貨は色が逆になります。
私はこの500リラ硬貨がとても気に入っていて、イタリアから10個以上は持ち帰っており
お土産代わりに差し上げたり、お守りとして運転免許証ケースなどに入れています。


さて、前置きはこのくらいにして…


私は縁あって「マドンナ」のいる礼拝堂に何度か行く機会がありました。
おそらく、イタリアで私が見てきた絵画の中で一番接した時間の長いのが「マドンナ」だと思います。
特に好きな作品というわけではないですし、ピエロが特に好きな画家というわけでもないのですが
そのせいか、私には旧知のお姉さんというような親近感があるのです。

この作品は1992~3年にかけて、ピエロの没後500年を記念して修復が施されました。
ピエロが亡くなったのは1492年のことです。
そして、それを機に礼拝堂を離れ、現在はモンテルキに新設されたマドンナ・デル・パルト美術館に移されています。
つまり、現在、礼拝堂に「マドンナ」はいないのです。
私が「マドンナ」に会ったのは、すべて修復前。
修復後は、いまだに1度も会う機会がないままです。

2010年、北イタリア在住の友人shinkaiさんより修復後の「マドンナ」の絵葉書が届きました。
shinkaiさんはその年にイタリア中部を旅された折り、モンテルキの美術館で修復後の「マドンナ」に会ってこられたそうです。
羨ましいなぁ~という私の叫びが聞こえたようで、わざわざ絵葉書を送ってくださったのです。
shinkaiさんはその年のクリスマスにブログで「マドンナ」の記事を書いておられます。
作者ピエロ・デッラ・フランチェスカのこと、モンテルキの様子など、是非こちらの記事をご覧いただきたいと思います。
http://italiashio.exblog.jp/12569796/



絵葉書に写っている「マドンナ」の姿は衝撃的でした。

修復後の姿は何かの本に載った小さな写真で知ってはいましたが、やはり衝撃的でした。
旧知のお姉さんの写真を久しぶりに見たら大変身を遂げていた…。
その変身ぶりはあまりに刺激が強すぎるというものでした。
私は絵葉書を、食い入るように、舐めまわすように、まじまじと眺めたものです。


それでは、まずは「マドンナ」の現在の姿から。




精霊によってイエス・キリストを受胎した聖母マリーアが中央に立ち
二人の天使が天幕を開いて、救世主を身籠った聖母をお披露目している(?)ような画面です。
聖母のお腹は、明らかに膨んできています。

こういうキリスト教絵画は、たいていが新約聖書から題材を取っているものですが、このような場面は書かれていません。
研究者によっては、これは受胎告知のピエロ的表現だとする意見もあります。
受胎告知でしたら「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に出てきますし
様々な画家が秀作を残していることはよく知られているところです。




フラ・アンジェリコの「受胎告知」

この絵のように、通常の受胎告知では大天使ガブリエルが聖母マリーアに対して受胎したことを告知する構図ですが
「マドンナ」では天使と聖母が一丸となって、絵を見ている我々に向かって受胎したことを告知していると言えます。



  


聖母は、あからさまに困惑したような表情をしています。
天使から突如懐妊を告げられ、しかも身ごもった子は神の子。
思わぬ出来事に戸惑いを隠せない様子が伝わってきます。

聖母は明らかにお腹が膨らんでいますので、受胎告知より少し時間が経過した場面のように感じますが
この聖母の表情を見ると、直前に告知を受けたばかりのようにも思えます。
あるいは、大天使ガブリエルに促されて全人類に対してメシア懐胎を披露するステージに立たされ
「なぜ私が…」と、お腹の膨らみ具合に比例して戸惑いが更に募るばかりという様子なのかもしれません。

この聖母は、他の聖母とは一線を画す、極めて人間的な描かれ方をしています。
聖母像というより、一人の女性の肖像と言ってもいいような趣です。
私たちが普通イメージする聖母とはだいぶ異なります。

私たちが思い浮かべる聖母の姿と言えば、例えば…



レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子のカルトン」(部分)
左から聖母マリーア、聖母の母アンナ、イエス・キリスト、洗礼者ヨハネ




ラファエッロ・サンツィオの「小椅子のマドンナ」
聖母子と洗礼者ヨハネ。


このような、包み込まれるような慈愛に満ちた微笑む聖母の姿でしょう。
そして、どれもが現実味の乏しい超美形に描かれています。
レオナルドにしてもラファエッロにしても、ピエロより少し後の盛期ルネサンスの人です。

ピエロより少し前であれば、例えば…



シモーネ・マルティーニの「受胎告知」(部分)



時代により、作者により、聖母の姿は様々にイメージされてきましたが
いずれも、神の子イエスの生母としての特殊性・崇高さを強調し神格化しているようです。
これらに比べると「マドンナ・デル・パルト」の聖母は、どこにでもいそうな、ごく普通の女性に見えます。
もちろん、これらの作者は誰も聖母に会ったことはありません。
いずれも作者の創作した理想像なのですが、ピエロだけは際立って一般人のような姿に描いているのです。


ピエロが生まれる150年ほど前、同じくイタリアにジョットという画家が現れました。
イタリア・パドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂の壁画などが有名です。




ジョット・ディ・ボンドーネの「エジプトへの逃避」 スクロヴェーニ礼拝堂壁画の一部


それまでの西洋絵画は、東ローマ帝国を中心に発展したビザンティン絵画の影響を色濃く受けて
イエスや使徒・聖人などの肖像は、様式化され、威厳に満ち、威圧的とも感じられる雰囲気をたたえていました。
ジョットは、それらに比べると土俗的とも言えるような素朴さを以て、より現実的で、親しみの持てる人物を描いたのです。
「初めて人間を描いた」と評されるジョット以降、西洋絵画は現実的・写実的表現に突き進みます。
盛期ルネサンスで一つの極みに達しますが、しかし、高度に洗練され過ぎたが故か
ビザンティン絵画のような威圧感こそありませんが、別の意味で非現実的で近寄り難い雰囲気の画面が多くなっているように思います。

そのような絵画史の流れの中で、ピエロの立ち位置は特異だと思います。
遠近法導入の過渡期にあって、それを積極的に取り入れ先進性は示しているものの
遠近法や写実的表現にまだ不慣れであったためか
人物は歪んでいて、作為的でぎこちないポーズを取っているものが多いのですが
しかしそれは、ある意味で素朴で、親しみやすさを感じさせ、人間味に溢れています。

ピエロはジョット的であるような気がします。
作風は大きく異なりますが、人間を描こうとしたという意味ではジョットとは共通性があるように思います。
そして、ピエロの作風は「清新」という言葉がとてもよく似合うと思います。
軽やかで明るく、澄み渡った空気に包まれていて、とても500年前の画家とは思えないほど近代的感性を持っています。

そんなピエロが描いた聖母ですから、人間味に溢れているのは当然だと思われますが
殊更一般人風に描いたのには、まだ他にも理由があるようなのです。

「マドンナ」のあるモンテルキは、ピエロの母親の出身地なのです。
ピエロは母が嫁いだサンセポルクロの街で生まれました。
サンセポルクロはモンテルキから17キロほど離れています。
そして母親は、「マドンナ」のいた礼拝堂のある墓地に埋葬されたのです。

「マドンナ」の聖母はピエロの母親の面影を写し込んでいると言われています。
本当に母親に似せて描いたのか、母親の眠る地にあるからそのような伝説が生まれたのか
そのあたりは定かではないのですが、見れば見るほど、さもありなんと思えてくるのです。




さて「マドンナ・デル・パルト」の現在の姿をご覧いただきましたが
私が墓地礼拝堂で会った当時は、あのような姿ではありませんでした。
では、私が慣れ親しんだ「マドンナ」はどういう姿をしていたのかというと…。



墓地礼拝堂にあった当時は、このような画面でした。
飾りっ気のまったくない礼拝堂の白い壁に、1点だけポツリと掛けられていたように記憶しています。
私はこの姿しか見たことがないのです。

比較しやすいように修復前後を並べてみます。



右の修復後の画像は、修復前の状態に合わせて時計回り(右)に1.5度ほど傾けてあります。

修復後の姿に衝撃を受けた…という私の感慨をご理解いただけることと思います。
修復前に比べると、だいぶ小さくなっています。
なぜこんなに小さくなったのでしょうか。

修復前の画面には多くの欠損が見て取れます。
左右の天幕の裾の外側は図柄が完全に消えてしまっています。
それに、天幕の上半分と下半分とは一体感がありません。
表現がまるっきり別物のように見えますし、上下の間には亀裂が見えています。

「マドンナ」は今回の修復以前に大きな損傷を受けて、すでに修復が施されていたわけです。
そして、修復前の画面全部がピエロの描いたオリジナルではないのです。

1992~3年の修復ではオリジナルだけが残されることになりました。
修復後の画面から消えてなくなってしまった部分は後補( こうほ )です。
後補とは、後世に施された補修・加筆を言います。
つまり、これだけしかオリジナルが残っていなかったわけです。
(ただし、左右の天使の靴など、一部は後補が残されています)

両者を見比べると、修復後の方がスッキリとして見やすい画面なのは明らかです。
後補の部分は質が高いとは言えず、オリジナルの「マドンナ」の印象を変えてしまっています。
オリジナルの姿を歪めてしまうような、雰囲気を損なうような後補は現代の修復では厳禁です。
絵画作品としては、このような後補は無い方がいいに決まっています。
この修復方法は現段階ではベストだったと言えるでしょう。

先ほど衝撃的だった…と書いたのは、修復方法に疑問があったわけではありません。
いくら後補が目障りであったとしても、修復前の姿しか知らず、それに慣れ親しんだ私には
それらを含めての「マドンナ」の面影なのです。
修復後の姿を初めて目にしてまだ日が浅いために
「マドンナ・デル・パルト」と言われれば、まず修復前の姿が浮かびます。
修復後の姿が真っ先に浮かぶようになるには、まだしばらく時間が必要でしょう。




さて、私の見た修復前の画面はアーチ型をしていました。
祭壇画をはじめ、当時アーチ型の絵は珍しいものではありません。
修復によって後補を除去したことは分かりましたが
修復後の姿はアーチ型をしていません。
アーチ型まで消してしまったのはなぜでしょうか。
修復前は後世に取り付けられた細い木枠が額縁のようについていました。
ですから、後補の木枠そのものは除去しても当然です。
しかし、そうなると元々の「マドンナ」全体の形がわからなくなってしまいます。
除去したということは、元々はアーチ型ではなかったということなのでしょうか。
アーチ型ではあっても大きさが違うということなのでしょうか。

画面には多くの欠損部があり、亀裂も入っているなど、かなり傷んでいます。
なぜ「マドンナ」はこんなに損傷してしまったのでしょうか。
そして、元々「マドンナ」は、どのような姿だったのでしょうか。

見れば見るほど、いろいろと疑問が浮かんでくるのです。




今回から4回に渡って「マドンナ・デル・パルト」について書いていきます。

第2回(21日アップ)では、この作品の構図法から始まって、作者ピエロにはどういうイメージがあったのか

第3回(23日アップ)では、これほどまでに損傷してしまった「マドンナ」の辿った数奇な運命を

第4回(25日アップ)では、描かれた当時の姿はどのようなものだったのか

これまで私の知り得た範囲、気づいた範囲で追いかけてみようと思います。

ただし、この記事は「マドンナ」についての学術的な定説・推測を紹介するものではありません。
それらを下敷きにしながらも、あくまで私個人の解釈・想いを綴ったものとなっています。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

Viewing all articles
Browse latest Browse all 216

Trending Articles