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マドンナ・デル・パルト 懐妊の聖母  第3回

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ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画「マドンナ・デル・パルト」

実物はイタリア・トスカーナ州の片田舎モンテルキのマドンナ・デル・パルト美術館に収蔵・展示されています。
しかし、元々は同じモンテルキの小さな墓地礼拝堂にありました。





モンテルキ墓地礼拝堂で私が会った当時(1990年前後)の「マドンナ」





  ■ モンテルキ墓地礼拝堂と「マドンナ」の辿った歴史

ご覧いただいていますように、「マドンナ」は描かれてから500年の間に大きく損傷してしまっています。
壁と一体化しているフレスコ画は頑丈なのですが(ただしブォン・フレスコの場合)、壁が損傷すれば絵も損傷してしまいます。
何を描いたものなのか判別できないほどに損傷したものも数多く見られますので
損傷すること自体は何ら不思議なことではないのです。

しかし、「マドンナ」の損傷からは奇妙な印象を受けるのです。
何かがおかしいと感じるのです。

墓地礼拝堂で実物を前にしていた時は「ああ、ずいぶん傷んでいるな」という程度の感想でした。
もっとずっと傷んだフレスコ画を数多く見てきましたので、特に気にすることはなかったのです。
しかし、修復後の絵葉書を手にして初めて「この傷み方は奇妙だ」と感じたのです。
修復後の姿を見慣れていない違和感によるものも多分にありますが
それとは違う違和感を感じるのです。

その理由を探るためには、まず「マドンナ」の身に何が起きたのかを知る必要があります。
「マドンナ」は、どのような運命を辿ってきたのでしょうか。
それを知るには、もちろん文献を当たらないと分かりません。

幸いにも、第1回でご紹介しました北イタリア在住の友人shinkaiさんが
イタリア語版ウィキペディアに掲載されている記事を翻訳してくださいました。
それをベースにし、他の情報も加えて、ざっと「マドンナ」の辿った歴史をご紹介します。



かつて「マドンナ」のいたモンテルキ墓地礼拝堂の建っている場所に
サンタ・マリーア・ディ・モメンターナという教会がありました。

古くはサンタ・マリーア・イン・シルヴィスと呼ばれていたようで
1230年にはすでに存在していたことが分かっていますが
その創建時期も、規模も、残念ながら現在では不明のようです。

その教会の礼拝堂の祭壇の壁に、主祭壇ではなく脇祭壇だったようですが
15世紀、ピエロ・デッラ・フランチェスカによって「マドンナ・デル・パルト」は描かれました。
制作時期は確定されていませんが、1455~1465年頃というのが有力のようです。
モンテルキはピエロの母親の故郷であり、この教会の墓地に埋葬されています。
母親の葬儀が1459年のことでしたので、その年か翌年に描かれたのではないかという説が最有力です。

当時ピエロはすでに高名な画家で、トスカーナ州アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂に
代表作の一つ「聖十字架伝説」の大壁画を描いた時期にあたります。
モンテルキのような片田舎の教会に、どのような経緯で多忙なピエロが描くことになったのかは不明なのですが
彼の母親の故郷であり眠る場所でもあること、聖母の顔が母親の面影を写し込んでいると云われていることなどから
おそらくはピエロが自ら志願して描いたのではないかと思われます。
「マドンナ」は極めて短時間に仕上げられたとも云われていますので
多くの制作依頼をこなす多忙な時間の合間を縫って描かれたものであろうと推測されるのです。


描かれてから約300年後、1784年から86年にかけて教会の敷地内に墓地が建設されることになり
礼拝堂は入口から約3分の2が取り壊され、奥の翼廊部分だけが葬儀用礼拝堂として残されることになりました。
これが現在の墓地礼拝堂なのです。
その際に「マドンナ」も本来あった壁から切り出され、アーチ型の壁龕(へきがん)祭壇となって、別の壁に移動されました。

壁龕というのは、礼拝堂の内陣(アプシス)の形を小型化したようなアーチ型の窪んだ構造物のことで
聖像を安置することが多かったようです。
下のフィリッポ・リッピの作品の背景は、壁龕を模して描き入れたものです。




フィリッポ・リッピの「聖母子」



その直後の1789年、大地震が襲い、礼拝堂が損傷を受けたのだそうです。

礼拝堂が損傷を受けるほどであれば、「マドンナ」も無事では済まないであろうことが容易に想像できますが
礼拝堂と「マドンナ」の被害がどの程度だったのか、それを記した資料は見つかりませんでした。



そして、それから100年ほどの空白の時間が過ぎます。
「マドンナ」の身に大きな動きがあったのは20世紀に突入する直前だったのですが、これについては後述します。

1911年、イタリア政府機関は「マドンナ」の保護・保全を決定し、修復家の手によって壁から剥がされることになりました。
剥がされた後、漆喰と金属網の上に再接着されたと書かれていますので、ストラッポされたという意味であることが分かります。
ストラッポとは、フレスコ画を最少限の壁の表面と共に剥がし取る技法です。
壁から独立しますので、施行後は一般の絵画同様に移動させることが可能になります。

1917年4月、再び大地震に見舞われたため、1919年6月までモンテルキ近郊のレ・ヴィッレの村に避難。
そして1922年9月まではサンセポルクロの市立博物館に避難した後、再びモンテルキの礼拝堂に戻されます。

1952年から53年の間は、修復のため再び礼拝堂を後にします。

1956年、礼拝堂の大規模改修があり、元々は翼廊で出入り口のなかった南側を正面玄関とし、内部北側の壁を祭壇とするように変更されました。
それを受けて、東側の壁にあった「マドンナ」が北側の祭壇に移設されたのです。

そして1992~93年に修復されて美術館に移設され、現在は穏やかな時を過ごしているのです。





私が1987年に初めて訪れた際に撮影した墓地礼拝堂の様子です。
中央に見える玄関部分が元々はサンタ・マリーア・ディ・モメンターナ聖堂の翼廊だった部分で
かつては左の方に身廊が伸びていたことになります。

奇しくも、私の生まれた年にこの状態に落ち着き
私が最後に「マドンナ」に会った直後の1992年に「マドンナ」は礼拝堂を離れたのです。
偶然の一致だと言われてしまえばそれまでですが
自分でも半ば不可解と思える「マドンナ」への拘りは、こういうことも遠因となっているのでしょうか。




こうして歴史を振り返ると、「マドンナ」は2度の大地震に見舞われていたことがわかります。
これほどまでに損傷してしまったのは地震のせいだった!と断定してもよさそうです。
イタリアも日本同様、地震が少なくはないのです。
1997年には、ウンブリア州で起きた大地震によってアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の天井が一部崩落し
修道士1人が命を落とし、描かれていた壁画が粉々になったことがありました。

しかし…
それだけなのでしょうか。
私は納得できないのです!

私が抱いた違和感は、地震で被災したことを知った後も解消していないのです。
地震によって損傷したことは確かでしょうが、それにしては腑に落ちないところがあります。

「マドンナ」を再度ご覧ください。





左右の天幕の裾は同じような位置で消えています。
子孫繁栄の象徴である石榴模様の描かれた幕の外側の空間も、左右同じくらいの位置で消えています。
「マドンナ」は左右対称の構図で描かれていますが、なぜか損傷までもがほぼ左右対称になっているのです。

上部は、ちょうど天幕の腰(ベルト)の位置、左右に開かれた天幕のスカートの分かれ目ピッタリの位置で途切れています。
下部は、聖母や天使の足の位置ギリギリで無くなっています。

そして、全体の形はほぼ正方形をしているのです。

これは地震だけの結果なのでしょうか。
それにしては何とも都合の良い位置で損傷したものです。
「マドンナ」が「マドンナ」であるために必要不可欠な最小限のパートだけを残して
綺麗に切り抜いたように地震が破壊したとすれば奇跡的、いや、それ以上です。
もしそれが事実なら、このような奇跡を起こした偉大な神を讃える記事に変更しなければなりません。

奇跡的と言うよりも作為的な匂いを感じるのは私だけではないはずです。

地震で大きな損傷を受けたのは確かだと思います。
しかし、本当に現存部分だけを残して、他はすべて修復不能なまでに地震が破壊し尽くしてしまったのでしょうか。
私には、とてもそのようには思えないのです。

歴史の闇の中から、空恐ろしい声が私の耳には聞こえてくるのです。


「これだけ残せば充分だ。他は必要ない」



1789年の大地震の後、礼拝堂の中で人々が目にした「マドンナ」には
いくつもの亀裂が走り、一部は壁ごと剥がれ落ちていたかもしれません。

しばらくして礼拝堂の復旧工事が始まりました。

しかし、「マドンナ」の修復作業の第一歩は、現状の綿密な調査でも
剥がれ落ちた断片を収集することでもなかったでしょう。
修復者が手にしていたのは、壁を壊すためのハンマーのようなものではなかったかと思うのです。

嫌な光景ばかりが私の頭をよぎります。

「マドンナ」の主要部分である聖母と天使、そして天幕の下半分を残して
周りの画面に次々とハンマーが振り下ろされるという悪夢のような光景が!

おそらく、現存部分の周囲にも比較的良好な残存部分があったものと思われます。
ひょっとしたら、大小いくつかの亀裂は入ったものの、ほとんどの画面が残っていたのかもしれません。
それにも関わらず、「マドンナ」に容赦なくハンマーが振り下ろされたのです。
一般的な絵画は四角ですから、おおよそ四角形になるようにしてから
周囲に額縁のような枠線でも描き入れておけば、一応絵らしく見えるのです。

こんなことが現実に起こったとは思いたくはないのですが
そうでなければ、ほぼ正方形に主要部分だけが都合良く残るなどということは考えられないのです。

地震によって損傷を受けた後、更に人の手によって破壊されたのではないか?!

破壊の時期には、もう一つの可能性があります。
最初の大地震の少し前、1784~86年の墓地建設工事で壁から”切り出された”際です。

いずれにせよ、その結果、おそらく現在の「マドンナ」とほぼ同じ状態になったものと思われます。
その時点で天幕の上半分は無くなったと思うのです。

その後、1911年に本格的な保存処置が開始され、壁からストラッポされた際
やはり祭壇画はアーチ型であるべきだと、丸い天幕を追加したのではないでしょうか。

その後、1917年に再度の大地震が襲い、天幕の上半分(後補)と下半分(オリジナル)の境目に亀裂が入ったと思われます。
この亀裂は、他の損傷よりも新しいものに感じるのです。
後補とオリジナルの境目は、どうしても強度が弱くなりがちです。
丸い天幕が描かれた後補部分は結構面積があり、重量もそれなりにあると思いますので
再度の地震の強い揺れに耐えられなかったと思われます。


ただし、人の手による破壊というのは、あくまで私の想像でしかありません。
物的証拠や目撃証言など、それを裏付けるものは何もないのです。

1911年以降は国家機関が保存に乗り出すなど、官民を挙げて大切にされてきました。
しかし、それ以前の状況が、もし私の想像通りだったとしたら
なぜピエロの作品はかくも粗末に扱われてしまったのでしょう。



ピエロの生誕地サンセポルクロには、彼の代表作の一つである有名なフレスコ画「キリストの復活」があります。
ゴルゴダの丘で十字架に架けられて絶命したイエスが、埋葬から3日後に復活したという場面を描いたものです。





この作品は、元々サンセポルクロの市庁舎の壁に描かれたものですが
現在は市庁舎の機能は移転し、市立博物館として使われています。
サンセポルクロとは「聖墳墓」という意味ですので、それに因んで描かれたものなのでしょう。

しかし、この作品はピエロの死後しばらくして石膏(漆喰という説もあり)で白く塗り潰されてしまったのです!
破壊こそ免れたものの、そのまま見える状態にしておく価値はないという烙印を押されてしまったわけです。
「マドンナ」ほど悲惨な状況ではないのですが、どちらも似たような運命を辿ることになったのです。

ピエロの活躍した初期ルネサンスの時代から
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどが輩出した盛期ルネサンスに至り
意外なことに、彼のことは急速に忘れ去られてしまったのです。
確かに、盛期ルネサンスの煌びやかな作品群と比較すれば、ピエロの作品はいかにも地味に見えます。
文芸復興の大合唱が鳴り響く中、人々が盛期ルネサンスの華やかさに目を奪われ酔いしれたことは想像に難くありません。
それに対してピエロの作品は、泥臭くて垢抜けない田舎者の絵という風に映ったことでしょう。
その結果、ピエロの名は歴史の奥底に沈んで行ってしまったのです。

そして時は移り、ピエロの名が完全に忘れられていた19世紀。
壁画の表面を覆っていた石膏が自然に剥がれ落ち始めたらしいのです。
伝承によれば、人が修復の手を加えるまでもなく、ほとんどの石膏が剥がれ落ちて絵が現れたそうです。

あまりにも出来過ぎた話ではありますが
こうして、ようやくピエロの名と作品が”再認識・再評価”されることとなったのです。

第二次大戦中には、サンセポルクロが連合軍による爆撃の標的に選ばれ崩壊の危機に直面したことがありました。
しかし、連合軍の一将校がこの絵の素晴らしさに感銘を受け、爆撃の標的から外すように奔走した結果
サンセポルクロの街と共に奇跡的に戦火を免れることができたのでした。
その後、この絵はサンセポルクロの街の紋章に採用されるなど、街の顔と言えるほどの存在となったのです。



「マドンナ」がピエロの作品であることを再認識されたのは1899年のことです。
アレッツォ出身のヴィンチェンツォ・フンギーニなる考古学好きの工学者が”再発見”したとのことです。
サンセポルクロの「キリストの復活」が、まさしく”復活”した時期と近いこともあり
それによってピエロを再評価する気運が高まり、1911年にイタリア政府機関が保存に乗り出したのです。

つまり、「マドンナ」が大地震によって損傷を受けた頃は、すでにピエロは忘れられた無名の画家でしかなかったのです。
それが「マドンナ」の悲劇に拍車をかけたと思うのです。

1789年の大地震で被災した礼拝堂を修理する際、本気で「マドンナ」を修復しようという動きはなかったと思われます。
ただ単に礼拝堂に絵がないのは見栄えが悪いから、あるいは新しい絵を描かせる余裕はないから、というような理由だけで
仕方なく最小限の部分だけを残したのではないでしょうか。





さて、「マドンナ」は1992~3年に施された修復作業によって後世の加筆が除去されオリジナルだけが残されました。
では、私の見た修復前のアーチ型の画面は元々の「マドンナ」の全容が想像できるものではなかったということなのでしょうか。

修復前の丸い天幕(テント)は後補でした。
考えてみれば、丸い天幕というのもおかしなことです。
モンゴルのパオのように頂上が丸味を帯びたものもありますが、テントというものは基本的に頂上が尖っています。
実際、アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂に描かれたピエロの大壁画「聖十字架伝説」の中には
下の画像にあるように、尖ったテントが描かれているのです。



「コンスタンティヌスの夢」 聖十字架伝説の一部


ですから元々の天幕の上半分は、もっと高さがあり、頂上は尖っていたと考えられるのです。
そうなると修復前のアーチ型では天幕の上部が画面からはみ出してしまうことになりますので、小さ過ぎるわけです。
修復前よりも高さがあったということになれば、左右ももう少し余裕があって幅が広く
天幕の周囲の空間は、修復前のものより広かったと考えるのが妥当です。

そこには何が描かれていたのでしょうか。
手がかりは、ほとんど残っていないのです。

ピエロの描いた「マドンナ」の全容はどのようなものだったのか。
やはり最後はそれが気にかかります。
しかし、現在の姿からは想像することすらできません。
そして修復前の姿も当てにならないとなれば、描かれた当時の「マドンナ」を知ることは見果てぬ夢でしかありません。

普通、文化財の修復の際には報告書が作られます。
綿密な事前調査から始まって、修復の過程の詳細な記録などが書かれた書物です。
当然のことながら、世界的文化財である「マドンナ」の報告書も作られたはずですが
私にはそれを閲覧する術さえありません。
その中には、「マドンナ」の当初の姿について何か記述があるのではないか…。
歯がゆい想いで地団駄を踏むしかなかったのですが
ある日、偶然にもインターネットで線描だけの簡単な復元図面を見つけることができたのです!
修復の際、コムーネ・ディ・モンテルキ(モンテルキ自治体当局)によって作られたものなのだそうです。
おそらく報告書に使われた画像を転載したものと思われます。

「マドンナ」が、少しだけ私に微笑みかけてくれたように感じました。


では、次回第4回(最終回)では「マドンナ」の当初の姿を追いかけてみようと思います。

しかし、いくら私が追いかけても「マドンナ」との距離は一向に縮まる気配はありません。
あれだけ損傷してしまえば、それも当然の話です。
それは全く勝ち目のない戦をするようなものなのです。


-------------- Ichiro Futatsugi.■

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